【藤原秀衡】
藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、
平安時代末期の武将。
奥州藤原氏第3代当主です。
鎮守府将軍、陸奥守。
藤原基衡の嫡男です。
【時代】
平安時代末期
【生誕】
保安3年(1122年)?
【死没】
文治3年10月29日(1187年11月30日)
遺体の状態から60~70歳、
もしくは70歳前後で死亡したとされています。
【別名】
次郎、秀平
【墓所】
岩手県平泉町 中尊寺金色堂
【官位】
出羽陸奥押領使、
従五位下・鎮守府将軍、
従五位上・陸奥守
【氏族】
奥州藤原氏
【父】
藤原基衡
【母】
安倍宗任の娘?
(異説あり。後述)
【兄弟】
◆男子?
藤原秀衡の通称が次郎で、
藤原秀衡の次男である藤原泰衡の通称が
次郎の次男という意味合いがある
小次郎であることから、
藤原秀衡には兄がいたとの推測があります。
◆秀衡、
◆十三秀栄、
◆樋爪俊衡
一説に弟とされ、従兄弟ともされています。
◆徳姫(岩城則道室)
藤原基衡の娘で藤原秀衡の姉妹、
または藤原清衡の娘で
藤原秀衡のおばという説があります。
実際には清原真衡の娘で
藤原清衡の養女(つまり、秀衡の義理のおば)
とも、藤原基衡の養女との説もあります。
【妻】
<正室>
佐々木秀義の伯母?
(異説あり。)
<継室>
藤原基成の娘・徳尼公
<妾>?
蝦夷の娘
<妻>?
信夫佐藤氏の娘
【子】
国衡、泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡、娘?
【北方の王者】
保元2年(1157年)、
父親である藤原基衡の死去を受けて
家督を相続します。
奥六郡の主となり、
出羽国・陸奥国の押領使となります。
両国の一円に及ぶ軍事・警察の
権限を司る官職であり、
諸郡の郡司らを主体とする
武士団17万騎を統率するものでした。
この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て
平家全盛期を迎えていました。
藤原秀衡は遠く奥州にあって
独自の勢力を保っていました。
この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は
平安京に次ぐ人口を誇り、
仏教文化を成す大都市であったのでした。
藤原秀衡の財力は
奥州名産の馬と金によって支えられ、
豊富な財力を以て
度々中央政界への貢金、貢馬、
寺社への寄進などを行って
評価を高めていました。
また陸奥守として下向した
院近臣である藤原基成の娘と婚姻し、
中央政界とも繋がりを持っていました。
【鎮守府将軍に叙任と都の貴族】
嘉応2年(1170年)5月25日、
従五位下・鎮守府将軍に叙任されました。
右大臣である九条兼実は「玉葉」の中で、
藤原秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、
その就任を「乱世の基」と嘆いています。
(また・・・。このひとはいつも批判しかしないし、
前から思うのですが差別的な物の見方ですな・・)
【差別的な都の貴族たち】
都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、
その武力が天下の形勢に関わる事を恐れながらも、
得体の知れない蛮族と蔑む傾向があったのでした。
この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を
藤原秀衡は意識していたと考えられています。
【源平の合戦には中立的な立場】
源平の合戦の際に一つの勢力に加担しなかったのも、
普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに、
自分達に都合のいい時に
奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢に
不満を抱いていたことも
中立の立場を堅持した理由ともされています。
【ひとりごと・・】
東北の人間からしてみれば、
源氏も平氏も等しく
「侵略者の犬」ですからね。
小学校学校の歴史の授業では、
並行して独自の教科書で
郷土の歴史を習っていたし、
歴史を習う前の学年でも、
東北の伝説・伝承などを読んでいたので
大人になって大河ドラマ
「炎立つ」を見た時は本当に感涙でした。
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【治承・寿永の乱と源義経】
安元の頃に鞍馬山を逃亡した
源氏の御曹司である源義経を匿って養育しました。
治承4年(1180年)、
源義経の兄である源頼朝が
平家打倒の兵を挙げると、
源義経は兄の元へ向かおうとします。
藤原秀衡は源義経を強く引き止めましたが、
源義経は密かに館を抜け出しました。
藤原秀衡は惜しみながらも
留める事をあきらめ、
佐藤継信・忠信兄弟を
源義経に付けて奥州から送り出したのでした。
源義経の破滅への歯車は
ここから動き出してしまったのですよね・・。
【平家の位うち】
養和元年(1181年)4月頃、
藤原秀衡に対して
源頼朝を追討する院宣が出されたと、
京で噂となりました。
8月15日、藤原秀衡は従五位上・陸奥守に
叙任されました。
同時に越前守に平親房、越後守に
平助職(城長茂)を任じました。
これらは平清盛亡き後に
平家の棟梁となった
平宗盛の推挙によるもので、
前年に挙兵した鎌倉の源頼朝や
源義仲(木曽義仲)を牽制する目的でした。
九条兼実はこの叙任も
「天下の恥、何事か之に如かんや。
悲しむべし、悲しむべし」と嘆き、
また参議・吉田経房も
「人以て磋嘆(さたん、なげくこと)す。
故に記録すること能わず」
と日記「吉記」に記しています。
(全く・・・)
【藤原秀衡の巧みな外交的手腕】
藤原秀衡は平家の
「位うち(官位を与え荷担させる)」
に乗る事はなく、
治承・寿永の乱の内乱期に
源義仲や平氏からの軍兵動員要請があっても
決して動く事はありませんでした。
一方で元暦元年(1184年)6月、
平家によって焼き討ちにあった
東大寺の再建に奉じる鍍金料金を、
源頼朝の千両に対して
藤原秀衡はその五倍の五千両を納め、
京都の諸勢力との関係維持に努めています。
平泉は京都と坂東の情勢を洞察した
藤原秀衡の外交的手腕によって、
戦禍に巻き込まれる事なく
平和と独立を保ち続けたのでした。
【藤原秀衡と源頼朝の対立】
けれども文治2年(1186年)、
平家を滅ぼして勢力を拡大してきた
鎌倉の源頼朝は
「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」
との書状を藤原秀衡に送り付けて
牽制をかけてきたのでした。
源氏の仲介など無しに、
直接京都と交渉してきた
奥州藤原氏にとっては
無礼な申し出であり、
藤原秀衡を頼朝の下位に
位置づけるものでした。
これに対して藤原秀衡は直ちに
鎌倉と衝突する事は避け、
馬と金を鎌倉へ届けました。
【覚悟の上での源義経の受け入れ】
源頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、
もはや鎌倉との衝突を避けられないと
悟った藤原秀衡は文治3年(1187年)2月10日、
源頼朝と対立して追われた源義経を、
源頼朝との関係が悪化する事を
覚悟で受け容れたのでした。
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【頼朝からの藤原秀衡への3つの要請】
文治3年(1187年)4月、
鎌倉ではまだ源義経の行方を占う
祈祷が行われている頃、
源頼朝は朝廷を通して
以下の三事について
藤原秀衡に要請したとのことです。
<1>
鹿ケ谷の陰謀で平清盛によって
奥州に流されていた院近臣・中原基兼が、
藤原秀衡に無理に引き留められて
嘆いているので、京へ帰すべきである事。
<2>
陸奥からの貢金が年々減っており、
東大寺再建の鍍金が多く
必要なので三万両を納める事。
<3>
度々追討等の間、殊功無き事
等である。
これに対して藤原秀衡は、
<1>
基兼については大変同情をもっており、
帰さないのではなく
本人が帰りたがらないのであり、
その意志を尊重しているだけである。
まったく拘束しているのではない。
<2・3>
貢金については三万両は甚だ過分であり、
先例で広く定められているのも
千両に過ぎない。
特に近年商人が多く境内に入り、
砂金を売買して
大概掘り尽くしているので、
求めには応じられない
と返答しています。
源頼朝は藤原秀衡が
院宣を重んぜず、殊に恐れる気配がなく、
件の要請も承諾しないのは
すこぶる奇怪であるとして、
さらに圧力をかける事を要請しています。
【源義経、奥州に居ることが発覚】
9月4日、源義経が藤原秀衡の下に
居る事を確信した源頼朝から
「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、
反逆を企てている」という訴えにより、
院庁下文が陸奥国に出されました。
これに対して藤原秀衡は異心がないと
弁明していますが、
この時に源頼朝が送った雑色も
陸奥国に派遣されており、
「すでに反逆の用意があるようだ」
と報告しており、
朝廷にも奥州の情勢を言上しています。
【藤原秀衡の死去】
このわずか2ヶ月後、
源義経が平泉入りして9ヶ月後の
文治3年(1187年)10月29日、
藤原秀衡は死去しました。
【後継者は藤原泰衡】
藤原秀衡には6人の息子がいましたが、
後継者は正室が産んだ次男の藤原泰衡でした。
けれども、側室が産んだ
長男の藤原国衡も
「愚管抄」には
「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者や
と見えけるに」とあり、
庶子とはいえその存在感は大きく、
一族の間では京下りの公家の娘から
生まれた藤原泰衡よりも、
身近な一族の娘から生まれた
長男で武勇優れた
藤原国衡への期待が高かったとも考えられています。
【一族の分裂を避けるために】
このような状況から異母兄弟の仲は
当然険悪で、鎌倉の源頼朝が
庶子である藤原国衡と接触して
味方に引き込み、
一族を分裂させるという危険性がありました。
最もこの奥州藤原氏に限らず、
後継者になれなかった者に
敵対者が接触して分裂を煽り、
一族の弱体化を図るというのは
よくある謀略でした。
藤原秀衡はそれを怖れていたと
考えられます。
藤原秀衡は両者の融和を説き、
藤原国衡に自分の正室である
藤原基成の娘を娶らせて、
義理の父子関係を成立させたのでした。
藤原国衡にとっては義母ですが、
後家は強い立場を持ち、
兄弟の後見役である
藤原基成が岳父となり、
後継者から外された
藤原国衡の立場を強化するものでした。
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【兄弟間の衝突を回避するために】
これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、
親子は原則としてそれはありえないので、
対立する藤原国衡と藤原泰衡を
義理の父子関係にし、
後家として強い立場を持つ事になる
藤原基成の娘を娶らせる事で
藤原国衡の立場を強化し、
兄弟間の衝突を回避したものと考えられます。
それほど兄弟間の関係は険悪で、
藤原秀衡が苦慮していたことがうかがえます。
また、初代の藤原清衡、2代の藤原基衡も
兄弟と争った経緯がありました。
【藤原秀衡の遺言】
そして、各々異心無きよう、
藤原国衡・藤原泰衡・源義経の三人に
起請文を書かせました。
源義経を主君として給仕し、
三人一味の結束をもって、
源頼朝の攻撃に備えよ、
と遺言して没したのでした。
兄弟間や一族の相克、
源頼朝からの襲撃を危惧しながらの死でした。
この処置のおかげで
藤原国衡と藤原泰衡の兄弟間の
衝突に関してはひとまず回避され、
家督は藤原泰衡が継いだのでした。
【藤原秀衡の人となり】
冷静沈着にして豪胆な人物であったといいます。
藤原秀衡が健在の間は、
源頼朝は平泉に朝廷を通じて源義経追討を要請し、
「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」
との書状を藤原秀衡に送り、
牽制をかけるという
書面上での行動しか起こしておらず、
軍事行動には至っていません。
【源頼朝が認めた藤原秀衡の器量】
これは源頼朝が藤原秀衡の君主としての
器量を認めざるを得なかったことを
示しているとのことです。
それほどまでに源頼朝は藤原秀衡を怖れていました。
そして、奥州藤原氏に対して
源頼朝の圧力が強まるのは藤原秀衡の死後からでした。
【藤原秀衡が成し得たこと】
【莫大な経済力】
砂金の産出や大陸との貿易等により
莫大な経済力を蓄え、
京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の
無量光院を建立するなど、
北方の地に王道楽土を現出させるかの
ような所業を遂げています。
【政治的手腕】
外交に関しては、
巨大な経済力をバックに朝廷や
平家政権と友好的な関係を
維持しながらも源義経を匿うことで
源氏とのパイプも築きつつ、
平氏の勢力が衰えた後は、
源頼朝と平和的な関係を築きながらも、
追われる源義経を平泉へ受け入れ
源頼朝からの襲撃に備える等、
かなりの戦略性の高さを見せています。
死後わずか2年で奥州藤原氏は滅びてしまいますが、
奥州藤原氏の最盛期を築いた人物であります。
【奥州藤原家にとって源義経は災い】
但し、藤原泰衡をはじめとする
息子達と源義経に対する遺言に関しては、
京都までその内容を行き渡らせていることで
藤原秀衡の戦略性の高さ及び
政治巧者ぶりを示すものであると見られていますが、
源義経を源頼朝からの襲撃への備えとしたことで、
藤原秀衡自身の死後、
源頼朝に「謀反人である義経と同心している」
と遺言を逆手に取られて
奥州合戦の口実を与えてしまっています。
源頼朝の圧力があったとはいえ、
藤原秀衡が遺した息子達と
源義経への遺言は遺された人物達を
縛り付ける呪縛となり、
一族の相克や源義経とその妻子の自害、
源義経の部下殺害、
そして奥州藤原氏滅亡という
最悪の結果を招いています。
【かつての安倍氏と一緒】
奥州にとって、「源氏」は
災いをもたらし滅さんとする者。
そのことをよく知っている奥州藤原氏。
かつて先祖の安倍氏が
そうやって滅ぼされたように
歴史は繰り返してしまうのです。
源義経を受け入れても、
突っぱねても結果は同じだったことでしょう。
ならばと、藤原秀衡は人としての選択をしたと思います。
東北の人間として、源義経は
「来ないで来ないで」と思っていました。
けれども、平泉では亡くならず、
更に北に逃げのびていったとやはり
信じてしまうのです。
【舅・藤原基成】
舅である藤原基成は元院近臣であり、
近親者に後白河法皇の側近が
多数存在していました。
源義経の実母である
常盤御前の再婚相手の
一条長成もその一人であったのでした。
【藤原秀衡の生母について】
藤原秀衡の生母については
安倍宗任の娘とされています。
一説には藤原基衡が安倍宗任の娘を
正室に迎えたのは家督継承後で、
それ以前に藤原秀衡は
生まれていたとされています。
このことから、
藤原秀衡の生母は藤原基衡が
家督継承以前に迎えていた
妻ではないかという推測もあるとのことです。
なお、父親である藤原基衡と藤原秀衡自身の
ミイラの分析から、
血液型は藤原基衡がA型で
藤原秀衡がAB型であることが判明しています。
よって藤原秀衡の生母が誰であれ、
彼女の血液型はB型かAB型と推測できるとのことです。
東北は結構B型やAB型が多いのです。
「B」因子が入っている血液型です。
東北出身か東北にゆかりのある方ですよね。
【藤原秀衡の正室について】
また、藤原秀衡の最初の正室について
「吾妻鏡」(治承4年8月9日条)や
「平泉志」には「佐々木秀義の伯母」
と伝えられていますが、
一方の「佐々木系図」では
佐々木秀義の母(=佐々木爲俊の妻)は
安倍宗任の娘と記されているとのことです。
このため、「佐々木秀義の伯母」
と称される女性は藤原基衡の正室のことで、
藤原秀衡の正室とする記述は
誤伝によるものではないかとする
指摘がされているそうです。
その説を採用した場合、
藤原秀衡の正室は
藤原基成の娘(藤原泰衡の母)
のみであったことになります。
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【金色堂に眠る藤原秀衡】
藤原秀衡の遺体はミイラとなって現在も平泉にあります。
中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められています。
昭和25年(1950年)3月の
遺体学術調査行われました。
その後の最終報告によると
藤原基衡と藤原秀衡の遺体が逆である事が判明し、
現在は向かって右の西北が
藤原秀衡壇とされています。
【藤原秀衡の体型や顔立ち】
平成6年(1994年)7月に
中尊寺により上梓された最終報告によりますと、
藤原秀衡は身長164cm、いかり肩で肥満体質、
腹がよく突き出していたとのことです。
幅広く厚い胴回り。鼻筋が通り高い鼻、
顔は長く顎の張った大きな顔で太く短い首。
重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、
これは美食の結果かと思われています。
【藤原秀衡の死因】
レントゲン検査によると、
脊髄に炎症があったとされて、
死因は背骨の外傷から菌が侵入して
その感染をうけ、骨髄炎性脊椎炎ないしは
脊椎カリエスかと想定されています。
骨髄炎性脊椎炎により
敗血症を併発していたともされ、
病床についた時間は長くなく、
死に至ったと考えられています。
また、骨髄炎性脊椎炎の影響で
生前は脊椎硬直があって脊椎が曲がらず、
晩年は臥床できなかった可能性があり、
高血圧、むくみの状態が見られ、
腎疾患・心機能不全などが見られたとのことです。
血液型はAB型で死亡年齢は
60歳代~70歳代くらい、
あるいは70歳前後とのことです。
右手首に数珠玉の跡が二列並んでいました。
遺体に副えられた副葬品は、
木製の杖、木製・ガラス製の念珠、
金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、
羅、白綾、錦、金銅鈴など、
京都のそれに勝るとも劣らない
当代一流の工芸品であったそうです。
ミイラを基にした藤原秀衡の
復顔模型が存在しているとのことです。
【源義経の遺児経若の伝承】
栃木県真岡市にある
遍照寺 (真岡市)の古寺誌によりますと、
常陸坊海尊は藤原秀衡の命を受け、
源義経の子である経若を
常陸入道念西(伊達朝宗(だてともむね・伊達宗家初代当主))
に託したとの記録が残っているとのことです。
<遍照寺 (真岡市)の古寺誌>
文治中、藤原泰衡追悼の軍功により
賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。
これより先、常陸坊海尊なる者
藤原秀衡の命を受け源義経の子、
経若を懐にして中村に来り、念西に託す。
念西、伊達に移るに由り
常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、
為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。
後、中村蔵人義宗と言ふ。
又左衛門尉朝定と改む。
(ウキペディアより)
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
田中 泯(たなか みん)さんが
演じられます。
藤原 泰衡~奥州藤原氏最後の当主、源義経や身内の命を犠牲にしても彼が守りたかったものとは何か?
藤原国衡~藤原秀衡の長庶子で藤原泰衡の異母兄、蝦夷の血を引く彼は武勇に優れており家中の期待も高かった。
源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。
平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。
川和城跡~源義経の郎党であり、武蔵武士である熊井太郎忠基の名が刻まれた碑があります。
平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。
武蔵坊弁慶~紀伊国出身の荒法師だったが源義経の郎党となり、多くの創作や伝説を生んだ人物。
由比若宮(元八幡)、河内源氏の源頼義が前九年の役の勝利で勧請したお社です。
郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。
板額御前~鎌倉時代初期に実在した女武将、後に弓の名手の浅利与一の妻になりました。
柳之御所遺跡・接待館遺跡・長者ヶ原廃寺跡・白鳥館遺跡~柳之御所遺跡・平泉遺跡群~安倍一族と藤原三代。
この記事へのコメントはありません。