【米子城】
米子城(よなごじょう)は、
鳥取県米子市久米町にあった日本の城です。
久米城、湊山城とも称します。
江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁でした。
城跡は国の史跡に指定されています。
【二つの米子城】
米子城には、
戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)
に営まれた砦と、
湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に
営まれた近世城郭があります。
江戸時代初期には伯耆国一国を支配した
中村氏による米子藩の藩庁となり、
その後は鳥取藩の支城となりました。
中でも江戸時初期に築城された湊山の方は、
山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
天守のあった標高90メートルの湊山は、
北側に丸山、東側に飯山、
さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、
この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、
外堀を巡らせるという、
典型的な平山城の特色を備えていたとのことです。
【戦国時代の米子城】
戦国期には飯山の頂上に、
南北約85メートル、
東西約35メートルの郭を構え、
東と北に野面積みで
高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていました。
門が3か所あり、
現在は残念ながら削平されていますが、
南が1段高く、建物の痕跡があったということです。
【江戸時代の米子城】
江戸期には湊山に新たに築かれ、
山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、
その下に三ノ丸を置き、
戦国期に米子城の主郭であった飯山は
出丸として利用されたとのことです。
四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、
30棟の櫓と20棟の門が建てられ、
城域の周囲に廻した堀には海水をひき入れていました。
平成18年(2006年)1月26日、
国の史跡に指定されました。
<異説>
ただし、飯山と湊山が別の山と
認識されたのは後世の話です。
中世には1つの山に付けられた別名が
「飯山」「湊山」であったとする
考えもあるとのことです。
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【江戸期の米子城の構造】
標高90mの湊山と峰続きの丸山、
湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と
山麓部に曲輪が設けられていました。
【鉄御門跡】
湊山山頂に位置し、
西伯耆から出雲の平野部や日本海、
中海、島根半島、隠岐、
中国山地が一望できるそうです。
大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、
鉄御門(くろがねごもん)などが置かれました。
なお、本丸までに番所跡や
遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残っています。
【副天守台】
慶長5年(1600年)に城主となった
中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた
独立式望楼型4重5階の天守でした。
明治11年(1878年)に撮影された
古写真が残っています。
初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、
3重目は7間×6間、
4重目と5重目は3間×2間半です。
外観は2重目を大入母屋破風と
千鳥破風・軒唐破風、
3重目には入母屋破風と千鳥破風、
最上重には軒唐破風があったそうです。
5階には望楼部の外廻り縁高欄を
覆ったと見られている板庇があり、
特異な外観となっていたそうです。
高さは21メートルはあったと考えられており、
本城である鳥取城の天守(2重2階)や
三階櫓をもしのいでいたそうです。
・・・現存していないのが残念ですね。
でも再建、となると莫大な費用と時間がかかってしまう・・。
【四重櫓】
天正19年(1591年)に
城主となった吉川広家が建てた
初代の天守であるといわれています。
その後に中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に
「四重櫓」と呼んで存続させたという伝承があります。
規模を考慮して古天守や副天守とも呼ばれています。
独立式望楼型3重4階の大型櫓でした。
初重平面形は不整形で、石落としや出張があります。
天守と同じく、
最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆ったことが
判明しています。
古写真は残ってはいませんが、
幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、
外観および内部各階の詳細な絵図面が残っています。
また米子市にある山陰歴史館、
米子市立義方小学校、
及び鹿島家分家に四重櫓の鯱一つずつが保存されています。
【全匡的に稀有であった2つの天守】
このように湊山頂上には、
四層五重の天守閣と四重櫓という
大小2つの天守が、華麗に連なっていました。
江戸時代に発布された「一国一城令」の下、
例外として存続を許された「支城」
と呼ばれる城のなかで、
このような天守をそなえたものは
全国でも稀であるそうです。
城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、
明治にいたるまでその偉容を誇りました。
【二の丸】
城主の御殿や、その台所、
藩の役所が置かれていました。
慶長8年(1603年)に
横田村詮は二の丸の建物内で暗殺されました。
二の丸入口は、東西25.4メートル・
南北22.77メートルの桝形があります。
現在、裏門にあたる太鼓御門跡や
御殿御用井戸が残るほか、
昭和28年(1953年)に移築された
小原家の表門長屋が置かれ、
テニスコートとなっている部分もあります。
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【三の丸】
作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、
番人詰所などか建ち並んでいたそうです。
外周には内堀を廻らせ、
大手門、搦手門、鈴の門(すんずのもん)で
守られていたそうです。
現在は、鳥取大学医学部付属病院や
米子市営湊山球場の敷地となっています。
【内膳丸】
本丸に登る途中右手に分かれて
登ったところにあります。
丸山と呼ばれ、標高は52メートルです。
中村一忠の家老である
横田内膳正村詮が担当して
構築したため「内膳丸」と呼ばれています。
二重櫓数棟と武器庫が設置されていました。
横田村詮が暗殺された時、
その一族が立て籠もったという記録もあります。
【登り石垣】
内膳丸と湊山山頂部の本丸遠見櫓を結ぶ
尾根の上に築かれていました。
江戸期の米子城絵図には
登り石垣らしき構造物が描かれていましたが、
明治期以降、その存在は確認されていませんでした。
けれども、平成28年(2016年)度の
発掘調査によってその存在が明らかとなりました。
中海側の岩盤をL字状に削り石垣を構築し、
反対側の石垣の東側には土塁を構築して
防御ラインを構成していました。
石垣の高さは3m以上で、
長さは40m以上存在したと推定されています。
登り石垣に連なる内膳丸も、
元々はこの登り石垣の一部と推測されており、
総延長は230mあったそうです。
築城主の吉川広家によって
造られた可能性が高いと見られています。
吉川広家が文禄・慶長の役に出兵しており、
倭城に用いられた先進技術を
取り込んだと推測されています。
【深浦】
城の西方・中海に面しており、
当初は毛利水軍の軍港が
設けられていたと考えられています。
【飯山】
戦国期の砦跡が出丸として改修され、
「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」
と呼ばれたと伝わっています。
横田村詮の暗殺により、
一族が立て籠もったのは、
飯山との見方が強いとされています。
【歴史】
【中世】
応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、
東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張しました。
「出雲私伝」によりますと、
文明2年(1470年)に尼子清定と戦った
伯耆方が敗れて米子城に入るとの記述があり、
この頃の築城と考えられています。
【戦国期】
大永4年(1524年)、
大永の五月崩れによって落城、
尼子氏の支配となります。
永禄5年(1562年)頃、
毛利氏の尼子氏攻略に伴い、
山名氏の支配となります。
永禄12年(1569年)、
尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らは、
米子城主山名之玄と結びます。
けれども、毛利方の吉川元春に攻められ落城し、
城主・山名之玄は自害しました。
吉川元春は配下の福頼元秀、
天正5年(1577年)から
古曳吉種を城主にしたと推定されています。
天正19年(1591年)、
東出雲・隠岐・西伯耆を領した
吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、
湊山に築城を開始します。
しかし古曳吉種は文禄の役で戦死。
吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、
岩国へ転封となりました。
【江戸時代】
慶長5年(1600年)、
豊臣秀吉の三中老であった中村一氏は
駿府城下内膳屋敷で徳川家康と会談し、
東軍徳川方に加わりました。
この論功により、中村一氏の嫡子である
中村一忠は伯耆一国17万5000石を領し
米子城に拠り、初代米子藩主となりました。
中村一忠は執政家老の横田村詮と共に、
米子城を完成させ、
さらに新たに米子城下町を建設し、
現在の商都米子の礎を築いたのです。
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慶長8年(1603年)、
城主側近の安井清一郎、
天野宗杷等の陰謀に惑わされた
城主の中村一忠は横田村詮を謀殺しました。
徳川幕府は、首謀者、安井、天野両名を
容赦なく切腹に処しました。
慶長14年(1609年)、
中村一忠が急死します。
惜しくも中村氏は家系断絶のため改易され、
翌年、替わって加藤貞泰が
伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となりました。
なお、中村氏旧領の残り11万5000石は、
八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されました。
元和3年(1617年)、
加藤貞泰が大洲藩に移され、
米子藩は廃藩となりました。
伯耆・因幡が全てが鳥取藩である
池田光政の所領となったことにより、
米子城には家老の池田由成が
城代として駐在しました。
池田光政が鳥取に入封した際、
鳥取城が32万5千石の居城としては
手狭であったため、
新城が検討されたことがあったそうです。
その際に候補に挙がったのが、
布勢天神山城・倉吉打吹城・
久米郡の茶臼山・米子城でした。
いずれの城・地域とも一長一短ある中、
米子城は「藩侯の居城としてふさわしい城」として
最後まで新城の候補地とされ、
激論が交わされたそうです。
結局、鳥取城を改築する運びとなり、
米子城が鳥取の首府になることは
ありませんでした。
寛永9年(1632年)、
池田光政の岡山国替により、
池田光仲が藩主となりました。
其の後明治維新に至るまで、
米子城は家老の荒尾但馬家が
城代として駐在しました。
【明治時代】
明治3年(1872年)、
米子城山が米子駐在の大四大隊の士族らに
無償で払い下げとなりました。
明治8年(1875年)、
士族ら、土地と建物の買い取りを
米子町に要請しましたが、
不成立となり、切り売りされてしまいました。
明治12年(1879年)、
(一説としてに明治9年・明治13年あり)
当時の金30円で古物商山本新助に売られ、
石垣を残して取り壊されました。
その後、城跡一帯は坂口氏の手に渡ります。
【昭和期以降】
昭和8年(1933年)、
坂口平兵衛(2代)から米子市に寄付され、
現在は湊山公園として整備されています。
ふもとから約15分の頂上から望む大山、
日本海、島根半島、中海は絶景であるとのことです。
【国史跡の指定】
現在城の建物は残っていませんが、
石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、
その構造を知ることができる城跡として重要であること、
また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、
良好な状態で伝えられていることから、
平成18年1月26日、
米子城跡は国史跡に指定されました。
平成29年(2017年)4月6日、
続日本100名城(169番)に選定されます。
平成29年度(2017年度)、
本丸北西側の竪堀の確認・発掘調査が行われました。
また、本丸より南西の山腹で、
石垣用の石材を切り出したとみられる
石切丁場が確認されました。
【所在地】
〒683-0824 鳥取県米子市久米町
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