【山崎山城】
所在地: 〒521-1111 滋賀県彦根市稲里町125
佐々木六角氏の家臣である山崎片家の城。
山崎片家が織田信長の配下になった後、
信長の命によって築城したとも言われています。
なお、築城時期ですが、
天正年間(1573~1592)の初期頃と推定されます。
推定される理由としてこの石垣は、
安土城の石垣に類似していることから、
築城時期は安土城が築かれた頃であるという見方からです。
築城の目的は、
「下街道」監視の目的で築城されたとも推測されています。
「下街道」⇒織田信長が岐阜から安土を経て、
京都へ登る道として整備した街道。
山崎氏は、豊臣秀吉の時代には
摂津の三田(現在の兵庫県三田市)に移封され、
この時期に廃城となったものと考えられています。
【山崎源太左衛門賢家(山崎片家)】
近江山崎氏は、宇多源氏佐々木氏の支族の一つで、
源頼朝が佐々木憲家を
近江国犬上郡山崎の地頭に任じたのが、
山崎を称したのが始まりとされています。
片家は丹波守宗家の子とされています。
初めの名は秀家でした。
六角義賢(よしかた)より偏諱を受けて
山崎 賢家(やまざき かたいえ)と称し、
正式名は山崎源太左衛門賢家(やまざきげんたざえもんかたいえ)。
読みが特殊のため、これがしばしば堅家の字で書かれることがあります。
義賢の子である六角義治(佐々木義弼)に仕えていましたが、不和でした。
<永禄6年(1563)>
観音寺騒動で親しくしていた後藤賢豊親子を殺されたのをきっかけに
六角氏と敵対し浅井氏につきます。
<永禄11年(1568)>
同年9月に織田信長が近江六角領内へ侵攻すると、
六角氏を見限り、いち早く降って、信長の家臣となり、
そのとき、片家と名を改めました。
<元亀元年(1570)>
信長に仕えて以後、近江衆として姉川の戦いに参加します。
この時、織田信長に従い姉川の合戦の先陣を務めます。
<元亀4年(1573)>
4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加。
同年7月、信長に従って将軍・足利義昭の槇島城を攻めます。
翌8月の浅井氏攻めにも参加します。
<天正9年(1581)>
9月の第二次天正伊賀の乱では信楽口からの侵入を務めます。
<天正10年(1582)>
4月、甲州征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応しました。
同年6月、本能寺の変が起きた際は、安土の自邸を焼き払い、
居城の山崎城へ籠もりましたが、
明智光秀の圧力を受けて降伏しました。
明智方の将として活動し、佐和山城の占拠などに協力しましたが、
光秀が羽柴秀吉によって討たれると、
すぐに秀吉に降って犬山郡山崎城の所領を安堵されたのでした。
同年冬、山崎城から改めて摂津国三田城主2万3000石へ移封となります。
<天正11年(1583)>
8月1日には近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵されています。
<天正12年(1584)>
清洲会議後、しばらくは織田信雄の家臣となっていましたが、
小牧・長久手の戦いで信雄と秀吉が対立するようになると、
再び秀吉に属して750の兵を率い、信雄方の城を攻めています。
<天正13年(1585)>
従五位下志摩守に叙任され、以後は秀吉家臣として活動します。
<天正15年(1587)>
九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1000人を率い、
3月1日に大坂城を発っています。
九州平定の終了時には、石田三成・長束正家・小西行長らと共に、
荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されました。
<天正16年(1588)>
4月、聚楽第行幸の際には関白諸大夫として秀吉の牛車に供奉。
<天正18年(1590)>
小田原征伐にも1000騎を率いて従軍します。
浅野長政と共に各軍を都督し、武蔵国岩槻城攻めに参加します。
<天正19年(1591)>
3月28日に伏見の自邸で死去し、享年45。
嫡男家盛が嗣ぎ、三田藩2代藩主となりました。
尚、加藤清正公の正室は山崎片家の娘とされています。
更に息子も清正公の養子に出すなど重縁を結んでいたそうです。
<茶道>
片家は甲斐武田氏を攻め滅ぼして凱旋した信長を居城に招いて茶屋を立てました。
また、津田宗及主催の茶会にも
度々招かれていることなどから、
茶道にも造詣が深い人物であったとされています。
<津田宗及>
津田 宗及(つだ そうぎゅう)は、
安土桃山時代の堺の商人および茶人でした。
「天王寺屋宗及」とも称されていました。
名は助五郎、号は天信、幽更斎。
千利休・今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられていました。
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【構造】
尾根の中央に大きな堀切を設け、
その東側半分(東西約90m、南北約20m)
を城域とする小規模ながら、石垣を設けた戦国期の城。
石垣は、西側斜面と、
掘切に面した尾根のもっとも高い位置を中心に2~3段残されていました。
掘切に面した高所は石垣が方形に巡っており、
入口を固める桝形であったと考えられます。
石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横位に置き、
目地が通るように積み上げ、
隙間には間詰石が裏面には栗石が詰められていました。
この石垣は、郭の高低差や栗石の残存状況から、
本来は2.5m程度の高さであったと考えられます。
<地図・青印は駐車場付近>
無料駐車場は北麓にあります。
貯水?タンクへの道もあり、その道はタンクで行き止まりなのでご注意ください。
駐車場から頂上までは10分程だそうです。
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