【白幡神社(藤沢)】
白旗神社(しらはたじんじゃ)は
神奈川県藤沢市にある神社です。
寒川比古命と源義経が
主祭神として祀られています。
別名は白旗さまです。
旧・藤沢宿です。
藤沢市民病院の近くでもあります。
藤沢市の白旗交差点から
国道467号(八王子街道)を
北へ300m進んだ場所にあります。
白旗交差点のすぐそばには
伝・源義経首洗井戸や
弁慶塚があります。
【ご祭神】
<主祭神>
◆寒川比古命(さむかわひこのみこと)
⇒相模国一宮の寒川神社の祭神。
◆源義経(みなもとのよしつね)
<相殿神>
◆天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
◆大山祇命(おおやまつみのみこと)
◆国狭槌尊(くにさつちのみこと)
⇒「日本書紀」の所伝で、
天地が初めて開けたとき
出現した独化三神の第二神。
土地をつかさどる神。
【歴史】
創立年代は不詳です。
白旗神社がいつごろできたのかは
定かではありません。
鎌倉時代よりはるか以前から、
相模国(相模川沿い)
にある寒川神社の神様である
寒川比古命をお祀りして、
同じ名前の寒川神社と
呼ばれていました。
また荘厳寺を別当とした神社です。
江戸時代に入り、
享保年間(1716年⇒1735年)に
正一位に叙せられ坂戸町の総鎮守となります。
元文年間(1736年⇒1741年)に
荘厳寺が火災で消失し、
延享4年(1747年)に神社の隣に
移転してきました。
宝暦2年(1752年)に社殿の再建、
白旗神社と称するようになったとのことです。
宝暦7年(1757年)、
神輿を江戸神田の神輿屋六兵衛が作りました。
明治8年(1875年)、
荘厳寺が明治元年(1868年)に
出された神仏分離令により移転しました。
【白幡神社の伝承】
文治5年(1189年)閏4月30日、
源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、
追い詰められ、
奥州平泉の衣川館において
自害しました。
その首は奥州から
新田冠者高平(にったかじゃたかひら)によって
鎌倉に送られました。
新田冠者高平が、
腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、
6月13日に和田義盛・梶原景時によって
源義経の首実検が行われました。
伝承では、この時に武蔵坊弁慶の首も
同時に送られ、
夜の間に二つの首は、白旗川を上り、
この地に辿り着き、
この神社の付近に
源義経と武蔵坊弁慶の首級が葬られたと
いわれています。
このことを源頼朝に伝えると、
白旗が源氏の旗であったことから、
白旗明神として
この神社に祀るようにと
指示したとのことです。
やがて源義経公は
神様として祀られることとなり、
のちに白旗神社と
呼ばれるようになったとのことです。
史実では宝治3年(1249年)に
源義経を合祀したとされています。
武蔵坊弁慶の首は、
白旗神社のそばに
八王子社として
祀られることになりました。
【鎌倉大日記】
鎌倉大日記によりますと
「文治5年5月13日
首上鎌倉被埋藤澤」とあるそうです。
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【東海道名所記】
東海道名所記によりますと、
藤沢より平塚六里十六町のくだりで、
「義経弁慶の首は鎌倉にのぼらせられた。
夜の間にふたつの首は、
ここに飛んで来た。
里人がこれをみれば、
大きい亀の背中に乗って声を出して
笑ったので鎌倉にこのことを申し伝えると、
すぐに神に祀って白旗明神と申すと、
その前に弁慶の塚がある。」
とのことです。
白旗神社に関する文献は
「東海道名所記」が
初出となっています。
【我が棲む里】
「藤沢の川辺に金色なる
亀泥に染たる首を甲に負ひ出てたり。
里人驚ろき怪しみけるほどに
かたわらにありける
児童たちまちに狂気のごとく
肘を張り
「われは源義経なり薄命にして
ざん者の毒舌にかかり身は
奥州高館の露と消るのみならず
首をさえ捨てられて
怨魂やるかたなし汝等よきに
弔らいくれよ」といい終りて倒れた。
諸人恐れてこれを塚となせり。」とあります。
【所在地】
神奈川県藤沢市藤沢二丁目4番7号
【交通アクセス】
<鉄道>
小田急電鉄江ノ島線
「藤沢本町」駅(各停のみ停車)下車
徒歩で約6分
<バス>
「白旗神社」前下車(神奈川中央交通)
<道路>
国道467号
【駐車場】
神社参拝者用の駐車場がありますが、
首洗い井戸や弁慶塚も行かれる場合は、
白幡神社向かいにあるショッピングセンター
「トレアージュ白幡」がおススメです。
規模は決して大きくありませんが、
レストラン・スーパーマーケット・
ドラッグストア・有隣堂(本屋)が入っており
買い物や食事が出来て便利です。
【周辺】
社殿の真南の方角に
源義経首塚跡および
伝・源義経首洗井戸があります。
更にその向こうに
江島神社(旧・金亀山与願寺)が位置しています。
御伽草子の「御曹子島渡」(室町時代)では
源義経は鬼の大王の娘と結婚していますが
実は江の島の弁才天であったそうです。
江島神社に伝わる
「江島弁才天縁起絵巻」(2巻、江戸時代)も
源義経を主人公とした
「御曹子島渡」の系統の
御伽草子となっているとのことです。
社殿の南南東の方角に
弁慶首塚・八王子権現跡(常光寺裏手)があります。
社殿の南南西の方角(湘南高校やや近く)には
那須与一が創建したという伝承がある
皇大神宮(烏森神社)があり
この皇大神宮のあたりを
奈須野と呼んでいたとのことです。
【伝義経首洗い井戸】
旧東海道(国道467号線)沿いの
かながわ信用金庫と
マンションの間の小道を入っていくと、
公園の片隅に伝義経首洗い井戸があります。
源義経は兄頼朝に鎌倉を追われ
奥州平泉に逃げていましたが、
文治5年(1189年)、
藤原泰衡は亡父の藤原秀衡がかくまっていた
源義経を攻め、
ついに衣川で源義経を自刃させました。
平泉から鎌倉に送られてきた源義経の首は、
6月13日、和田義盛と梶原景時が
腰越の浜で首実検を行ったことが
「吾妻鏡」に記されています。
首実検の終了後に、
片瀬の浜に捨てられたとのことです。
そして潮にのって境川をさかのぼり
白旗神社付近に漂着した
源義経の首を里人がすくいあげ、
この井戸で洗い清めたという伝承があります。
一説によりますと、
鎌倉に入る前に首実検に備えて
化粧を施したとも、
また、夜間に鎌倉方面から、
首が目を見開いて亀
の背に乗り飛んできたとも
伝えられています。
【源義経の首塚】
以前は、鳥居が建てられ
源義経の首を祀った首塚がありました。
近くには武蔵坊弁慶の首塚もあり
庶民に信仰されていました。
昭和24、25年頃までは
白旗横町の中央山本ビル(大東京火災社屋)の裏に
「源義経公の首塚」があったそうです。
この首塚の前に「源九郎判官源義経公首塚」
と刻んだ立派な石碑も建っていたそうです。
けれども太平洋戦争後の混乱期であったため、
東アジアの外国の人がこの周辺を
古鉄の集積場として使用するために、
首塚の土饅頭をならしてしまい
石碑を隣地の「首洗井戸」
のある公園に移したということです。
なので現在は、
首塚と首洗い井戸が
同じ敷地にあるということです。
なお源義経公の首塚の所在は
藤沢のみです。
【所在地】
〒251-0052 藤沢市藤沢2丁目1-10
【交通アクセス】
小田急江ノ島線「藤沢本町」下車徒歩5分
白旗神社から徒歩5分
【御曹司の碑】
藤沢にはもう一つ源義経に関する
伝承が伝わっているそうです。
御所見の用田辻近くの
個人宅の庭に
御曹司(おんぞうし)と
書かれた碑が残されています。
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源頼朝挙兵の報を聞いた源義経は、
三百騎を率いて、平泉をでました。
源頼朝の軍勢に追いつくために
「馬の腹筋を馳せ切り、脛の砕くるを知らず」という
疾駆(しっく)ぶりで、
武者達は次々脱落して
半数ほどになったそうです。
「義経記」によりますと、
このとき府中から
平塚に抜けたことが記されています。
用田を通り寒川に向かう街道を
源義経一行が通ったのを記念して
建てたものとのことです。
なお、この街道は中原街道のことです。
<中原街道>
中原街道は現在の国道1号桜田通りから
東京都道・神奈川県道2号線および
神奈川県道45号線に相当し、
高座郡寒川町一之宮の田村の渡し、
または、四之宮の渡しで相模川を渡り、
平塚市御殿へ達しています。
現代でも主要幹線道路です。
【弁慶の首塚】
藤沢宿にある常光寺の西側に
八王子権現社跡があります。
かつて、この場所には武蔵坊弁慶を祀る
八王子権現社があって、
主君である源義経を祀る
白旗神社の方に向けて
建てられていたと伝えられています。
八王子権現社跡にある
並木の手前のイチョウの大木は
幹がイチョウ2つに割れています。
雷が落ちて焼けたのだそうです。
並木のある段は広場のようになっており、
奥にはさらに石段があり、
もう1段高い場所に
弁慶塚と呼ばれる石碑があります。
その背後には庚申塔などが並んでいます。
この石段の上にも石段の石を
飲み込むようにタブノキの古木が立っています。
けれども幹の中はなく、
半分だけの木の皮が辛うじて
残っているだけです。
このタブノキにも落雷がありました。
しかし、しっかりとこの木は生きております。
このイチョウの木とタブノキの2本の古木が
藤沢市指定天然記念物「常光寺の樹林」になっています。
【所在地】
〒251-0053 神奈川県藤沢市藤沢本町4丁目5−21
旧東海道・国道467号線を歩き、
藤沢公民館分館の済美館の横の
細い道を入っていきます。
すると「中横須賀公園」にたどり着きます。
石段を上がったその上に
「弁慶塚」があります。
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