【権現山城】
権現山城(ごんげんやまじょう)は、
神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷にあった日本の城です。
【別名】
狩野川之城か?
【城郭形態】
平山城
【天守構造】
なし
【築城主】
上田政盛
【築城年】
不明
【主な城主】
上田政盛
(通称:蔵人)
【廃城年】
不明
【遺構】
消滅か
【城の説明】
現在の幸ヶ谷小学校・幼稚園のある地点及び
幸ヶ谷公園は、
かつては権現山と呼ばれており、
本覚寺のある西側の高島台とは
尾根伝いに繋がる急峻な山でした。
なお本覚寺のある高島台には青木城がありました。
【権現山の戦い】
永正7年(1510年)、
当時関東を支配していた
扇谷上杉家の家臣上田政盛は、
伊勢盛時(北条早雲)に味方して謀反を起こし、
山上に砦を築き立て籠りました。
これに対し、扇谷上杉家の上
杉朝良・山内上杉家の上杉憲房は
権現山城を包囲して、
援軍に駆けつけた北条軍を撃破したのでした。
この時の戦いは上杉方の勝利でしたが、
その後、上杉氏の力が弱まり、
小田原北条氏による関東支配が始まっていったのでした。
【南北朝時代の城】
南北朝時代の史料に登場する
「狩野川之城」は、
権現山城の前身とされています。
山上には醍醐三宝院の勝覚僧正が、
寛治元年(1087年)に分祀した
熊野権現が祀られていましたが、
正徳2年(1712年)6月に山上が崩壊し、
熊野権現は金蔵院の境内に移っています。
現在は、神奈川熊野神社です。
<所在地>
横浜市神奈川区東神奈川1-1-3
最寄り駅:
京急「仲木戸」駅
JR:「東神奈川」駅
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【城跡】
権現山は、幕末に神奈川台場建設のための
土取り場となり山頂が削られてしまいました。
さらに明治時代には後の東海道線となる
日本初の鉄道の建設により
開削されたことで、
地形はかつてと大幅に変わってしまいました。
現在の横浜市の埋蔵文化財包蔵地地図上では、
城跡は「破壊」されたと見なされています。
【権現山の戦い】
永正7年(1510年)年6月に
山内上杉顕実が死亡したのを機に、
当時、伊豆にいた伊勢盛時(北条早雲)は、
関東進出を図り、
扇谷上杉朝良に戦いを挑みます。
伊勢盛時(北条早雲)は
扇谷上杉朝良の家臣であった
上田政盛(出自は武蔵七党・西党とされています。)
に働きかけ、
扇谷上杉朝良から離反させて挙兵させました。
上田政盛の謀反を知った
扇谷上杉氏と山内上杉氏は
対立していましたが、
共通の敵である伊勢盛時(北条早雲)を討つべく、
同ねん7月11日に2万の大軍で
権現山城を包囲したのでした。
同月の19日まで激戦が繰り返され、
結果は両上杉氏が勝利し権現山城は落城しました。
【間宮彦四郎現る!】
激しい攻防の中、伊勢方の権現山城の勇将たちが
両上杉軍の陣中へ突撃していきます。
その中に「神奈川の住人、間宮の某」
と叫んで突撃した武士がいたということです。
その人物は「間宮彦四郎信盛」であるそうです。
間宮氏は宇多源氏佐々木氏一族とされています。
間宮氏はそのころ、
川崎の堀之内城にいたとされていますが、
伊勢盛時が相模東部に進出すると、
いち早くその家臣になったとされています。
・・・ちなみに間宮海峡の間宮林蔵氏のご先祖様です。
【所在地】
〒221-0051 神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷5
【交通アクセス】
京浜急行「神奈川」駅
徒歩2分
<甚行寺 フランス公使館跡>
権現山城の港側にはフランス公使館となっていた
真宗高田派寺院の甚行寺があります。
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