【肥田城】
所在地:滋賀県彦根市肥田町
JR東海道線「稲枝」駅より徒歩25分程度。
佐々木六角氏の命によって大永年間(1521~1528年)に肥田城を築き、
高野瀬城とともに土着の豪族である高野瀬氏の城となりました。
高野瀬隆重(たかのせたかしげ)が築城してます。
平城です。
城跡は石碑が建つなど整備され、
歴代城主や位置や規模などの説明看板も設置されています。
【高野瀬氏】
高野瀬氏は近江国愛智郡にあった
高野瀬村から起こった中世の武家です。
近江源氏佐々木系と藤原秀郷系の二つの流れがあるとされています。
尚、秀郷系高野瀬氏ですが、
頼高の時代、元弘の変に遭遇し、六波羅探題北条仲時を
番場宿で討ち取ったという功績をあげています。
そしてこの頼高から「高野瀬」氏を名乗ったそうです。
北条仲時に従っていた武士432名が自刃したと伝わる「連華寺」は
鎌刃城跡近くで、鎌刃城主の土肥元頼と伝わる墓があります。
<元弘の変>
元弘の変(げんこうのへん)は、元弘元年(1331年)に起きた、
後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動です。
元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの
一連の戦乱を含めるともされています。
元弘の乱(げんこうのらん)とも呼ばれています。
【城の歴史】
高野瀬氏は代々佐々木六角氏に仕えていましたが、
近江守護職のうち、江北を支配していた京極氏が衰退し、
家臣の浅井亮政が頭角をあらわし、
ついには下克上を起こし勢力を拡大します。
その子久政は六角氏に従いましたが、
久政の嫡男である賢政(のちの浅井長政)は、
反六角派の家臣の応援を得て父である久政を追放します。
高野瀬氏は六角氏に従っていたものの、
浅井賢政改め浅井長政の調略もあり、
元より六角氏には不満を抱いていた
高野瀬秀頼の代に浅井氏に付きました。
そのことに激怒した六角氏は肥田城を攻めるに至ります。
【野良田の戦い】
永禄2年(1559年)に佐々木六角氏に攻められました。
このとき六角義賢は城の周囲に土塁を築き、
宇曽川・愛知川から水を引き入れて肥田城を水攻めにしました。
けれども、土塁が崩れてしまい水攻めは失敗に終わります。
これは野良田の戦い(のらだのたたかい)もしくは野良田合戦の始まりでした。
ちなみにこの合戦は、浅井長政が父親を追放して
家督を継いだ最初の合戦で初陣となります。
六角承禎が肥田城を攻め寄せた事を知った長政は肥田城の救援に向かい、
承禎はこれを迎撃します。
戦場は野良田であり、両軍は宇曾川を挟んで対峙しました。
この時の六角軍の総勢は2万5000人で、
総大将は承禎、先鋒に蒲生定秀と永原重興、
第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔らが参陣していました。
浅井軍は総勢1万1000人と六角軍の半分以下の人数でした。
このため、緒戦では兵力で圧倒的な六角軍が浅井軍を押しましたが、
緒戦の勝利に油断していたところを浅
井軍の反撃や新手の斬り込みなどで崩され、合戦は浅井軍の勝利となったのです。
この時、六角軍は920人、浅井軍は400人の死者が出たとされ、
合戦跡には神社が建てられています。
<遺構>
東側の土塁及び東南角の土塁
南側の土塁と堀跡
<地図>
肥田城跡の石碑があるところ。
<史跡 肥田城水攻堤>
六角義(承禎)が肥田城攻め(野良田の戦い)で行った水攻めの堤跡。
六角氏が肥田城の周りに土塁を築き
愛知川、宇曽川から水を引き水攻めを行いましたが、失敗し、
駆けつけた浅井長政によって惨敗し、衰退のきっかけとなりました。
<水攻堤>
<地図>
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<野良田合戦跡>
※浅井長政初陣とされています。
「野良田町東」そばの「神社」付近(野良田合戦の案内があります)
<地図>
【野良田の戦い以降】
<六角家⇒観音寺騒動>
其の後六角家は、
野良田の戦から3年後には観音寺騒動が起きて
承禎・義治父子は居城の観音寺城を追われてしまいます。
重臣の蒲生定秀の尽力により復帰を果たしますが、
合戦から8年後に織田信長の上洛を阻もうとして抗戦し、
それにより信長に滅ぼされてしまいます(観音寺城の戦い)。
ただし、永禄4年3月には
六角軍が浅井方の佐和山城を落として反攻に出ていること、
観音寺騒動は野良田の戦い以前からの
承禎・義治父子の対立に由来しているとする説もあります。
<浅井家滅亡>
一方の浅井氏ですが、
浅井長政は近江支配における浅井家の政治的立場を確立し、
北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めていきます。
けれども隠居の久政にある程度の影響力・発言力は残されて
完全な権力移譲が行なわれず、
やがてこれが織田信長との破局にまで至りついに滅亡します。
<高野瀬氏自害と廃城へ>
浅井家滅亡後は、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えますが
天正2年(1574年)、
越前一向一揆に敗れて自害します。
その後、蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりましたが、
長谷川秀一が朝鮮の役で病没すると廃城となりました。
<観音寺の戦い後に足利義昭上洛>
京都を支配していた三好三人衆らは六角氏の敗北を聞いて浮き足立ち、
織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐されました。
9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入ります。
この時、明智光秀も義昭の上洛に加わっています。
入京した義昭は東山の清水寺に、
信長は東福寺に陣し、
細川藤孝は宮廷の警護に従事します。
こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は征夷大将軍の座に着いたのです。
<明智光秀「信長公記」初登場>
永禄12年(1569年)1月5日、
三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲します(本圀寺の変)。
防戦する義昭側に明智光秀もおり、これが、『信長公記』への初登場となります。
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