【面影橋・山吹の里と紅皿】
都営荒川線「面影橋駅(おもかげばしえき)」を
北に行くと神田川のうえに小橋が有ります。
面影橋と呼ばれるその橋は
承応年間(1652年~1655年)、
神田上水工事の頃に造られたと言われています。
江戸時代には「姿見橋」と呼ばれ、
特に大きな蛍の名所だったようです。
橋名の由来として以下の逸話があります。
<1>
戦国時代(具体的な年代は不明)、
この地に来たという和田靱負という武士の娘である
於戸姫の伝説です。
結婚を断った武士にさらわれ、
気を失ったところを
杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、
やがて近所の小川左衛門に嫁いだ於戸姫ですが、
夫の友人に夫を殺され、
仇はとったものの、
自分の身に相次いで起こる不幸から、
家を出て神田川の川辺でわが身を水に写します。
そして亡き夫を想いながら
川に身を投げてしまいました。
里人は於戸姫の心情を思いやり、
面影橋・姿見橋と名付けたとのことです。
<2>
昔この近くに住む和田某の娘お戸姫が、
その美貌ゆえに次々と災難に会うのを苦に髪を切り、
深夜この橋の上で変わり果てた
自分の面影を川面に映したということです。
【山吹の里】
面影橋のたもとには
「山吹の里」の碑が建っています。
この辺から下流の江戸川橋までの一帯は
昔「山吹の里」と呼ばれていたようです。
江戸川橋の右岸が
「新宿区山吹町」と呼ばれるように、
今もその名残が地名に残っています。
【太田道灌と少女・紅皿】
その昔、太田道灌が武辺一徹だった頃、
この辺りまで狩りに来たそうです。
急な雨に往生して困り果て、
ふと一軒の民家を見つけ
蓑(みの・雨具の一)の借り受けを所望しました。
ところがうら若い女性は
ただ黙ったまま蓑の替わりに、
一輪の山吹の花を太田道灌に差し出したのでした。
太田道灌はその少女の行動の意味が
皆目見当もつかず、
「花を求めたのではない」と
不機嫌のまま帰城してしまいました。
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城に帰って側近の者にその話しをすると、
その側近は、それは後拾遺集の
醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王が詠まれた、
「七重八重花は咲けども
山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき」
という有名な古歌にかけて、
花が咲いても実のつかない山吹のように、
余りにも貧しくてお貸しする蓑のひとつもございません、
という返答でございますと言上しました。
それを聞いた太田道灌は
村娘さえ知る歌を知らなかった
己の不勉強を深く恥じて、
この後猛烈に学問に励んで
当代一の知勇兼備の歌人になったと言われています。
この娘は紅皿といい、
その墓と称される碑が
後述する区内新宿6丁目の大聖院にあります。
【複数ある山吹の里】
ただし、この山吹の里の場所については
異説があり、都内23区ですと
◆荒川区荒川7-17-2(泊船軒内に史跡)、
◆豊島区高田1-10-5(山吹の里公園に由来板)、
◆豊島区高田1-18ー1(面影橋そばに史跡)
◆新宿区新宿6-21-11
(大聖院内に山吹の里伝説の娘の墓)、
◆新宿区西新宿2-11
(新宿中央公園に太田道灌久遠像)。
けれども実際の場所となると、
伝説自体の真偽について議論があるため
断定することは困難になっています。
また東京都以外にも「山吹の里」
と伝えられる場所があります。
なお対岸の新宿区側一帯は、
昭和63年(1988年)の
発掘調査で確認された
中世城館跡(下戸塚遺跡)や
鎌倉街道伝承地などが集中しており、
交通の要衝地・武士の本拠地であったことは確かな事でした。
なおこの碑は橋のたもとにありましたが、
河川改修工事で現在地に移動しました。
更に細部を確認すると
貞享3年(1636年)の供養塔を
改ざんしたものでありました。
(豊島区教育委員会)
【面影橋・所在地】
〒169-0051
東京都新宿区西早稲田3丁目
<交通アクセス>
都電荒川線「面影橋」駅から徒歩1分
地下鉄副都心線「雑司が谷」駅から徒歩10分
【山吹の里の碑・所在地】
(面影橋付近)
〒171-0033 東京都豊島区高田1-18ー1
【コインパーキング】
大規模な新築マンションの向かい及び
面影橋への道路沿いにコインパーキングがあります。
【紅皿の墓】
太田道灌の山吹の里伝説に登場する
少女・紅皿の墓と伝承される
中世の板碑(1基)、
燈籠(2基)、水鉢(1基)、
花立(2基)から構成されています。
板碑は区内で唯一のものとなる
中世の十三仏板碑です。
板碑の前には12代守田勘弥や
歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、
その存在が広く知られるようになりました。
伝説では、太田道灌が
高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ
鷹狩に来てにわか雨にあい、
近くの農家に雨具を借りようと立ち寄ります。
その家の少女・紅皿は、
庭の山吹の一枝を差し出し、
「御拾遺集」の中にある
「七重八重花は咲けども
山吹の実のひとつだになきぞかなしき」
の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えました。
後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、
紅皿を城に招いて歌の友としたとのことです。
太田道灌の死後、紅皿は尼となって
大久保に庵を建て、
死後その地に葬られたということです。
【大聖院】
天台寺門宗寺院の大聖院は、
梅松山五大尊寺と号します。
大聖院の創建年代等は不詳ながら、
中世より春日部にあり本山派修験不動院と
号していたといいます。
年不詳ながら当地へ移転、西向天神社の別当、
天台宗本山派の江戸番所を勤めていたとのことです。
境内には太田道灌の山吹の里伝説に
登場する少女・紅皿の墓があります。
この墓碑は、もとは同寺に隣接する
法善寺の崖際にあったもので、
崖崩れのために現在地へ移したといい、
江戸中期にはすでに
現在地にあったことが知られています。
なお、紅皿の墓は大聖院に隣接する駐車場の
敷地内にあります。
木製の引き戸を開けて出入りできます。
またこの地も「山吹の里」伝説の地となっています。
【所在地】
〒160-0022 東京都新宿区新宿6丁目21−11
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【西向天神】
西向天神社は、新宿区新宿にある神社です。
安貞2年(1282年)に
明恵上人(1173年⇒1232年)が
創建したと伝えられ、
社殿が西を向いているため
西向天神と呼ばれました。
天正年間(1570年代)に
兵火で全焼していたのを
聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、
大僧都玄信に命じて再興させたといいます。
その後荒廃していましたが、
寛永年間(1630年代)に
徳川家光の鷹狩りの祭に、
黄金の棗を下賜されたことから
棗の天神ともいわれます。
天保13年(1842年)には
富士塚が築かれ、
現在でも境内に残っています。
東大久保村の鎮守、
明治5年には村社に列格していました。
東都七福神の一つです。
<ご祭神>
菅原道真公
<相殿>
稲荷大神、厳島大神、秋葉大神
<境内社>
富士塚
<所在地>
新宿区新宿6-21ー1
【大聖院・西向天神の交通アクセス】
都営地下鉄大江戸線・
東京メトロ副都心線「東新宿」駅より徒歩10分程度。
<コインパーキング>
新宿文化センター
(〒160-0022 東京都新宿区新宿6丁目14−1)
の斜め向かいにあります。
面影橋~西向天神社(大聖院)まで2・5kmの距離。
徒歩:30分程度
車 :15分程度
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