【川和城跡】
「新編武蔵国風土記稿」では、
川和町にある城根山妙蓮寺は、
「川和城塁」の城地に建てられたもの
とされています。
また、付近には「城山」「城山下」
「城山根」「城古場」といった字名が
残っています。
けれども、
城主や築城の経緯などについては
伝わっておらず、
熊井太郎忠基とも
小田原北条氏の時代の城ともされています。
墓地の最も高い場所に
「熊井太郎忠基」の名前が刻まれた
石碑があります。
港北ニュータウンの開発にともなって
墓地を整備し直し、
城山一帯はきれいに墓苑化されています。
以前は土塁状遺構が
残っていたという情報がありますが、
今では確認することができません。
<城山からの眺め>
川和城山は、鶴見川河岸の丘陵から
少し飛び出た小峰で、
東側は小さな谷戸地形を
形成しています。
「日本城郭大系」では、
現在川和団地となっている
この谷戸に居館が存在していたのではないか
と推測しているとの事です。
熊井太郎忠基の名が刻まれている
石碑への入り口です。
妙蓮寺の裏山にある
墓地がある丘を登り切った
処です。
【妙蓮寺】
妙蓮寺(みょうれんじ)は、
神奈川県横浜市都筑区にある
日蓮宗の寺院です。
山号は城根山です。
旧本山は身延山久遠寺、通師堀之内法縁。
九老僧(朗門の九鳳)の一人
越中阿闍梨朗慶(1336年没、法性寺開山。)が、
康永3年(1344年)に草創した草庵です。
日耀(1474年没)が
長禄年間(1457年-1461年)に再興しました。
その後享禄3年(1530年)、現在地に移転しました。
【妙蓮寺所在地】
〒224-0057 神奈川県横浜市都筑区川和町977 妙蓮寺
【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
【トイレ】
参拝者用の男女別のトイレがあります。
【交通アクセス】
横浜市営地下鉄グリーンライン
「川和町」駅徒歩10分
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【熊井太郎忠基】
「本朝武功正伝」によりますと、
源義経につかえており、
寿永3年(1184年)、
摂津一ノ谷の戦いで功をたてたとのことです。
やがて奥州に源義経にしたがったということです。
埼玉県比企郡鳩山町熊井598に所在する
「熊井山 妙光寺」では、
お寺がある周辺は
熊井に残る伝説の場所となってるとのことです。
その伝説とは
「比企郡鳩山村熊井に
熊井太郎忠基(くまいたろうただもと)の館跡がある。
忠基は元暦文治の頃、
源義経に仕えて名を青史に残した。
この館跡に鎧塚とよぶ名の塚がある。
忠基は義経が吉野落ちの後、
一時この地に身を潜めていたが、
義経が藤原秀衡のところに身を寄せたと聞き、
彼の地に赴くにあたって塚を築き、
冑鎧を埋めた。よっていつしか
この塚を鎧塚と呼ぶようになった。」
という内容です。
当時、熊井忠基に従った郎党の家系が
今もこのお寺の檀家として
いらっしゃるとのことです。
更に戦前の頃までは
塚や社があったものの、
開墾され畑になってしまった。とのことです。
熊井忠基は河越別当葛貫別当である
河越重頼の配下の武将であったと
考えられています。
熊井忠基は、鵯越で有名な一ノ谷の合戦や
その前哨戦の三草の戦いで
突然軍功を上げ、連戦連勝破竹の勢いで
歴史の表舞台に登場します。
熊井忠基が源義経19人衆とも
8人衆とも呼ばれるように成った頃、
吾妻鏡によりますと、
源義経は源頼朝の命により、
河越重頼の娘を正室に迎えたとのことです。
その後源義経と源頼朝の関係は悪化、
ついに源義経は追われる身となり、
奥州へと逃げていくことになります。
その時、熊井忠基は、
熊井の地にいたとされています。
行方不明の源義経主従を、
あるいは源義経の正室の郷御前を
必死に捜索していたかもしれません。
更に郷御前の父親でもある河越重頼が嫡子と
共に源義経を匿っている疑惑を受け
源頼朝の命で討たれてしまいました。
やがて源義経が奥州平泉に在りの
報を受けるやいなや、
伝説通りの行動をとったことでしょう。
源義経主従は約10ヶ月間を要し、
西暦1187年の冬に
奥州平泉の「藤原秀衡」の元に到着します。
熊井忠基も追捕の手を逃れながら
源義経の元に到着したことでしょう。
熊井忠基は一説では
文治5年(1189年)に亡くなったと
されています。
【熊井太郎忠基と川和】
比企郡に館を構え、
武蔵武士であった熊井太郎忠基が
どのように川和の地と縁があったのかは
今では残念ながらわかりません。
平家との戦で功績を挙げ、
河越重頼配下の武将で源義経の郎党であった
熊井太郎忠基は恩賞として、
川和の地をもらい受けたのかもしれません。
その後の源義経と源頼朝の関係の悪化、
更に河越重頼の誅殺で
熊井太郎忠基の存在もまた
歴史の渦に埋もれてしまったのですが。
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