鎌倉殿の13人

川和城跡~源義経の郎党であり、武蔵武士である熊井太郎忠基の名が刻まれた碑があります。

「熊井太郎忠基」の石碑



スポンサーリンク



【川和城跡】

「新編武蔵国風土記稿」では、
川和町にある城根山妙蓮寺は、
「川和城塁」の城地に建てられたもの
とされています。
また、付近には「城山」「城山下」
「城山根」「城古場」といった字名が
残っています。
けれども、
城主や築城の経緯などについては
伝わっておらず、
熊井太郎忠基とも
小田原北条氏の時代の城ともされています。

墓地の最も高い場所に
「熊井太郎忠基」の名前が刻まれた
石碑があります。
熊井太郎忠基 石碑

港北ニュータウンの開発にともなって
墓地を整備し直し、
城山一帯はきれいに墓苑化されています。
以前は土塁状遺構が
残っていたという情報がありますが、
今では確認することができません。

<城山からの眺め>
川和城山一帯からの眺め
          
川和城山は、鶴見川河岸の丘陵から
少し飛び出た小峰で、
東側は小さな谷戸地形を       
形成しています。
「日本城郭大系」では、
現在川和団地となっている
この谷戸に居館が存在していたのではないか
と推測しているとの事です。

熊井太郎忠基の名がある石碑入り口

熊井太郎忠基の名が刻まれている
石碑への入り口です。
妙蓮寺の裏山にある
墓地がある丘を登り切った
処です。
          
【妙蓮寺】
妙蓮寺(みょうれんじ)は、
神奈川県横浜市都筑区にある
日蓮宗の寺院です。
山号は城根山です。
旧本山は身延山久遠寺、通師堀之内法縁。
九老僧(朗門の九鳳)の一人
越中阿闍梨朗慶(1336年没、法性寺開山。)が、
康永3年(1344年)に草創した草庵です。
日耀(1474年没)が
長禄年間(1457年-1461年)に再興しました。
その後享禄3年(1530年)、現在地に移転しました。

妙蓮寺(川和)

【妙蓮寺所在地】
〒224-0057 神奈川県横浜市都筑区川和町977 妙蓮寺

【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。

【トイレ】
参拝者用の男女別のトイレがあります。

【交通アクセス】
横浜市営地下鉄グリーンライン
「川和町」駅徒歩10分




スポンサーリンク



【熊井太郎忠基】
「本朝武功正伝」によりますと、
源義経につかえており、
寿永3年(1184年)、
摂津一ノ谷の戦いで功をたてたとのことです。
やがて奥州に源義経にしたがったということです。
埼玉県比企郡鳩山町熊井598に所在する
「熊井山 妙光寺」では、
お寺がある周辺は
熊井に残る伝説の場所となってるとのことです。
その伝説とは
「比企郡鳩山村熊井に
熊井太郎忠基(くまいたろうただもと)の館跡がある。
忠基は元暦文治の頃、
源義経に仕えて名を青史に残した。
この館跡に鎧塚とよぶ名の塚がある。
忠基は義経が吉野落ちの後、
一時この地に身を潜めていたが、
義経が藤原秀衡のところに身を寄せたと聞き、
彼の地に赴くにあたって塚を築き、
冑鎧を埋めた。よっていつしか
この塚を鎧塚と呼ぶようになった。」
という内容です。

当時、熊井忠基に従った郎党の家系が
今もこのお寺の檀家として
いらっしゃるとのことです。
更に戦前の頃までは
塚や社があったものの、
開墾され畑になってしまった。とのことです。
熊井忠基は河越別当葛貫別当である
河越重頼の配下の武将であったと
考えられています。
熊井忠基は、鵯越で有名な一ノ谷の合戦や
その前哨戦の三草の戦いで
突然軍功を上げ、連戦連勝破竹の勢いで
歴史の表舞台に登場します。
熊井忠基が源義経19人衆とも
8人衆とも呼ばれるように成った頃、
吾妻鏡によりますと、
源義経は源頼朝の命により、
河越重頼の娘を正室に迎えたとのことです。

その後源義経と源頼朝の関係は悪化、
ついに源義経は追われる身となり、
奥州へと逃げていくことになります。

その時、熊井忠基は、
熊井の地にいたとされています。
行方不明の源義経主従を、
あるいは源義経の正室の郷御前
必死に捜索していたかもしれません。 
更に郷御前の父親でもある河越重頼が嫡子と
共に源義経を匿っている疑惑を受け
源頼朝の命で討たれてしまいました。

やがて源義経が奥州平泉に在りの
報を受けるやいなや、
伝説通りの行動をとったことでしょう。
源義経主従は約10ヶ月間を要し、
西暦1187年の冬に
奥州平泉の「藤原秀衡」の元に到着します。
熊井忠基も追捕の手を逃れながら
源義経の元に到着したことでしょう。
  
熊井忠基は一説では
文治5年(1189年)に亡くなったと
されています。

【熊井太郎忠基と川和】
比企郡に館を構え、
武蔵武士であった熊井太郎忠基が
どのように川和の地と縁があったのかは
今では残念ながらわかりません。
平家との戦で功績を挙げ、
河越重頼配下の武将で源義経の郎党であった
熊井太郎忠基は恩賞として、
川和の地をもらい受けたのかもしれません。
その後の源義経と源頼朝の関係の悪化、
更に河越重頼の誅殺で
熊井太郎忠基の存在もまた
歴史の渦に埋もれてしまったのですが。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。

藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

亀井城(川崎 月讀神社)~伝亀井六郎(源義経四天王)の居城、戦国時代には領主は小島佐渡守、古墳もあり。

関連記事

  1. 浅利与一義成公 浅利与一義成(浅利義遠)~甲斐源氏の一族で弓の名手であり武田信義…
  2. 頼朝の一杯水 頼朝一杯水~源頼朝が伊豆山への逃避中に休息し水を飲んだと伝わる場…
  3. 平清盛 平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り…
  4. 班渓寺 山吹御前~木曾義仲(源義仲)の妻妾で木曾義高(源義高)の生母とも…
  5. 高崎城址 高崎城跡~井伊直政が築城し改修は安藤重信~元は鎌倉時代から存在し…
  6. 安楽寺(吉見観音)境内 安楽寺(吉見観音)、比企三山の一つで源範頼が身を隠したと伝わる名…
  7. 逗子 伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと…
  8. 大阪方面 河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。 五人囃子

ピックアップ記事

  1. お雪供養塔
  2. 和気清麻呂の像
  3. 尾張・大野城(常滑市)
  4. 有馬本城(安楽寺)(熊野市)
  5. 清光寺(北区豊島)
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP