【下野・藤沢城】
栃木県栃木市鍋山町にあるお城です。
標高194m、比高は140m程の山城で、
別名は鍋山城といいます。
【所在地】
栃木県栃木市鍋山町
<場所>
青印は「藤沢城址」の看板が設置されている辺りです。
【築城年】
永正年間(1504年⇒1521年)
室町時代
【築城者】
小曾戸丹後守親治
または
小曾戸(島津)政忠
【城主】
小曾戸氏
【遺構】
堀、土塁
【築城の理由】
西側にある不摩城(秋葉城)があり、
更に守りを強固なものにするために
築いたとされています。
【地理的状況】
山頂部に本郭を設け、
南、東、北側にかけて空堀が確認できるそうです。
西側ふもとには居館跡があったそうです。
南東部に横矢懸りが見られ、
南側には三段ほどの腰曲輪があるようです。
沢を挟んだ東側の丘陵にも
数段の腰曲輪が見られるようです。
さらに東側の沢を挟んだ
丘陵の裾部にも多くの
腰曲輪群が見られるそうです。
また、本郭がある丘陵の南麓には
城主である
小曾戸丹後守親治のものと
言われている宝篋印塔があるそうです。
季節によっては藪が深く、
確認が難しく、足元も良くないかと思います。
あと蜂などの虫対策も必要になるかと思います。
城跡付近には、
城主の子孫である
小曾戸氏が現在も住んでらっしゃいます。
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【小曾戸氏について】
藤沢城は佐野氏の家臣で鍋山衆筆頭の
小曾戸氏(おそどし)の城でした。
鍋山、粕尾、尻内などを支配していました。
小曾戸氏は元々島津氏でした。
【下野の島津氏】
戸矢子有綱(足利有綱)の娘である加賀局が
戸矢子有綱の遺領を相続し、
梅沢、千手、寺尾の領主となりました。
加賀局の2番目の夫が島津忠佐となります。
そしてその子盛忠に梅沢、千手、寺尾の領地が
引き継がれ、こうして下野国の島津氏が誕生したのでした。
なお、島津忠佐は島津氏2代目である
島津忠時の子共となります。
祖父は島津忠久で島津氏の始祖です。
【島津氏から梅沢氏へ】
時は流れて永正年間、
島津盛忠の子孫である
正親は梅沢城を築城して
梅沢氏を名のるようになります。
そして佐野氏の武将として活躍したそうです。
【梅沢氏から小曾戸氏へ】
そしてその正親の次男である
親治は藤沢城を築城し、
小曾戸氏を名のったとされています。
なお、小曾戸親治は、
島津盛忠の6代後、
ということになるそうです。
なお、別の史料によりますと、
藤沢城を築城したのは、
小曾戸(島津)政忠とあります。
【小曽戸氏の戦功】
小曽戸氏が戦功を挙げたのは、
1564年に起こった戦いとの文書があります。
1564年2月、上杉輝虎が
佐野氏の唐沢山城を攻めました。
2月27日の「佐野昌綱書状写」(島津文書)で、
佐野昌綱は小曽戸長門守(泰忠)に、
「於諸口敵五十餘人討捕、
手負数多仕出之候之事、誠以忠信手柄、無比類次第候」
と、その戦功を賞しているとのことです。
この時の戦いは相当の激戦であったそうです。
佐野昌綱は、宇都宮広綱と
佐竹義昭が間に入ったことにより、
上杉輝虎と和議を行ったのでした。
【虎房丸のこと】
また年代は不明ですが、
上杉謙信から小曾戸氏への書状が
確認されているそうです。
小曾戸図書之助と
小曽戸善三と、
小曽戸氏一族である
梅沢兵庫助に対しての書状です。
そしてその内容は、
戦功を褒めている事と、
虎房丸の件を託しているものです。
上杉輝虎(上杉謙信)は「虎房丸」を遣わし、
佐野昌綱の養子として
佐野家を相続させるように述べているそうです。
一方、
佐野氏の系図では虎松丸と言う、
上杉家へ養子に出された武将がいます。
虎房丸と虎松丸(佐野昌綱の末子)は
果たして同一人物なのか疑問が残ります。
なお「虎房丸」は14歳で病死したとのことです。
【唐沢山天正の乱】
佐野家は佐野昌綱の嫡男である
佐野宗綱が家督を継ぎました。
佐野宗綱は弟で上杉氏の養子に入った
虎松丸と不和になり、
一族間で「唐沢山天正の乱」
と呼ばれる争いが起こってしまいます。
これにより佐野氏は上杉氏と決別します。
天正4年(1576年)、
虎松丸に加勢した上杉謙信は
1万5千の兵をもってこの城を攻めましたが、
一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により
上杉軍を撤退させたそうです。
それまでも9度にわたり
上杉軍の攻城を受け、
城主であった佐野昌綱は何度も降伏したものの、
上杉謙信を大いに手間取らせました。
この堅固さは評判となり、
関東一の山城と賞賛されたとのことです。
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【佐野家の相続問題】
天正13年(1585年)元旦、
佐野宗綱は
小田原北条氏に与する長尾顕長と
彦間で戦った際、
敵将の挑発に乗り単騎で
突出したところを鉄砲で撃たれ、
落馬したところを討ち取られました。
佐野宗綱には嫡子がなく、
佐野宗綱の弟(叔父とも)である
佐野房綱(天徳寺宝衍)や
山上道及ら
「佐竹氏から養子を迎えよう」とする重臣と、
「北条氏から養子を迎えよう」
とする反対派の重臣に分かれて対立しました。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、
天正15年(1587年)、
北条氏康の五男(又は六男)・氏忠を養子に迎え
小田原北条氏と和議を結んだのでした。
そして北条氏忠が正式に佐野氏を継承しました。
一方、
佐野房綱ら反北条氏方であった
重臣らは佐野氏を出奔したのでした。
【佐野房綱が佐野家を継承す】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉による小田原征伐に際し、
佐野(北条)氏忠は本家共々降伏しました。
佐野家の家督は出奔していた佐野房綱が
2年間の名代として継ぐことになりました。
其の後は、
佐野房綱には子がいなかったので、
豊臣秀吉の家臣である富田信高の弟に当たる
信種を養嗣子として迎え、
佐野信吉と改名して佐野家を継ぎました。
【佐野氏の改易】
慶長19年(1611年)、
佐野信吉の実兄である富田信高改易に
連座および自身の不行跡を理由として、
佐野信吉は改易処分となり、
信濃国松本に配流され、
大名としての佐野氏は終焉しました。
【佐野氏改易後は帰農】
佐野氏が改易され、大名家としての
佐野家が終焉を迎えると、
佐野家家臣であった小曾戸氏は帰農したそうです。
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