【花見塚】
江戸時代初期の頃まで、
この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていたそうです。
建武の中興に功績のあった新田義貞は、
後醍醐天皇のそばに仕えていた匂当内侍を、
その恩賞として賜ったそうです。
当代一の美人と言われた内侍のために、
新田義貞はこの地に新しい館を構え、
その庭に各地から集めたつつじの名木を
植えたと伝えられています。
新田義貞の没後、勾当内侍は尼となって
ここで新田義貞の菩提を弔ったと伝えられ、
いつしか柊塚とか花見塚と呼ばれるようになっていました。
江戸時代に入った寛永4年(1627年)、
当時の領主榊原(松平)忠次は、
ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、
今のつつじが岡公園の古木がその移されたつつじとされており、
中には樹齢八百余年を経ているのもあるということです。
一方、その後の花見塚は、
新田義貞と勾当内侍の墓と伝えられる
墓石のある墳丘と、
花見塚に至る道筋に、
小字「花見道」の地名が残るのみで、
わずかに往時を偲ばせていたほど
ひっそりとしてしまいました。
やがて現代に入り、
全町史跡公園化整備計画の一環として、
ゆかりの地の館林から若木のつつじを求め、
公園として整備されました。
【花見塚神社】
花見塚神社のご祭神は
◆後醍醐天皇
◆神武天皇
です。
正平元年(1346年)、
後醍醐天皇の第三皇子である宗良親王が
南朝の皇運を祈るために建立したと伝わっています。
宗良親王は建武2年(1336年)に、
新田義貞の別邸となったこの花見塚御別家に
逗留されたとのことです。
その際に一句詠んでいるとのことです。
色におき野辺の千草の中々に
たかくちなしといふや山吹
宝暦元年(1751年)に神社は
残念ながら火災にて焼失しました。
そして昭和45年(1970年)、
神社は再建されました。
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【所在地】
〒370-0418 群馬県太田市武蔵島町87
【交通アクセス】
【電車】
東武伊勢崎線 「木崎」駅
⇒ 約3.5km(徒歩約35分・車約10分)
【車】
太田藪塚IC⇒ 約12.6km(約25分)
【駐車場】
4~5台分あり
【施設】
◆公衆トイレ
◆ベンチ
<場所>
青印は駐車場付近です。
その近くにトイレ(男女兼用)があります。
【勾当内侍】
勾当内侍(こうとうのないし、生没年不詳)は、
南北朝時代の女官。
本名は不詳です。公家の世尊寺家の一族で、
一条経尹あるいは一条行尹の娘、
または一条行房の娘もしくは妹と伝えられています。
「太平記」に新田義貞の妻の一人として登場します。
なお、正妻は安東氏の娘とのことです。
【勾当内侍について】
勾当内侍は、鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、
鎌倉陥落に功績のあった
上野国の新田義貞へ天皇から恩賞として与えられ、
新田義貞の妻になったと伝えられています。
建武3年(1336年)初頭、
新田義貞は建武政権から離反した足利尊氏を
楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、
足利尊氏らは九州へ逃れましたが、
2月から3月にかけて新田義貞は
足利尊氏追撃を行いませんでした。
その理由としては、「太平記」では
新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、
出兵する時期を逃したとして、
彼女が結果的に新田義貞の滅亡の遠因を作ったとする
描き方がされてしまっています。
【今堅田の別れから越前へ向かう】
その後、足利尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、
新田義貞は恒良親王らを奉じて
北陸地方へ逃れていきました。
「太平記」によりますと、
琵琶湖畔の今堅田において別れ、
京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は
新田義貞に招かれ北陸へ向かったとのことです。
【新田義貞の戦死】
けれども新田義貞は足利軍の攻勢により
延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日、
藤島の戦いと呼ばれる合戦で越前国にて戦死しました。
新田義貞が戦死した藤島近くの三国湊は、
勾当内侍の収入源のひとつだったと
指摘されているとのことです。
勾当内侍は杣山(福井県南条町)において
その戦死を知り、
京で獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして
落飾して比丘尼になったと描かれています。
また、勾当内侍の父と伝わる行房も
新田義貞に従い、
北陸で戦死していると記されているとのことです。
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【墓所と伝承】
「太平記」によりますと、
新田義貞の死後、
勾当内侍は京都の嵯峨にある往生院で、
新田義貞の菩提を弔って余生を過ごしたとあります。
けれども他の伝承もあります。
それは
大津市堅田にある勾当内侍を祭神とする
野上神社(野神神社)・菩提寺の泉福寺には、
勾当内侍が琵琶湖琴ヶ浜に入水したという伝承が存在しています。
更に慰霊のための野上祭(野神祭)も行われているとのことです。
【江戸時代にブーム到来】
その後、江戸時代に講釈として「太平記」が広まると、
各地に勾当内侍の墓所が作られたとのことです。
【新田義貞と勾当内侍の出会い】
花見塚神社がある公園には、
勾当内侍の墓として説明看板があります。
その中には、
新田義貞とのなれそめも記されています。
以下、抜粋して紹介します。
「勾当内侍は16歳の時に内裏に召されて以来、
女官の中でも特に天皇からの寵愛が深かったのでした。
それは生まれながらの美貌によるものでした。
新田義貞も内裏に召されて
警護を任されていました。
ある秋の夜、
勾当内侍の弾く琴の音に誘われて
新田義貞はその美貌のとりことなったのでした。
恋慕の想いを歌に託して勾当内侍に送ります。
我が袖の涙に宿るかげとだに
しらて雲居の月やすむらむ
勾当内侍はたいそう心を動かしたとのことですが、
このことは天皇には知られてほしくはありませんでした。
けれども新田義貞の恋慕が評判になってしまい、
天皇はほどなく、
新田義貞と勾当内侍の事を知ることになります。
天皇は東国武士の一徹から分別もなく
想いそめるのも無理はないと、
哀れに思い、酒席の盃に添えて
勾当内侍を新田義貞に娶らせました。
新田義貞と勾当内侍の愛は、
正に傾国のような溺愛ぶりであったとのことでした。」
(参考:案内看板)
【真実は如何に?】
異説では勾当内侍は実在しないとか、
実は新田義貞は伝染病にかかって
戦に行くことが出来なかった、
などとの説があります。
更に、勾当内侍は新田義貞を戦に向かわせず、
新田義貞の滅亡のきっかけとなった
悪女として記されてもいます。
けれども、戦に明け暮れただけではない
新田義貞の一面も垣間見ることが出来て
歴史上の書面だけではない、
生きた人物像が見えてきます。
明日はどうなるかわからない。
だからこそ今を真摯に生きる・・。
新田義貞と勾当内侍の溺愛は
そうした思いからきているのかもしれません。
今は静かで日当たり良好で風が通る場所に
ひっそりと寄り添って佇んでいます。
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