【忠勝公園】
大多喜城主となった本多忠勝は、
文禄4年(1595年)に
下総小金(松戸市)東漸寺の住職
了学上人を招いて、
菩提寺良心寺を建立し、
寺領として100石を寄進しました。
墓地には本多忠勝、同夫人、
次男で上総大多喜藩の第2代藩主である
本多忠朝の墓があります。
本多忠勝は慶長15年(1610年)、
63歳で桑名、また一説には
江戸で没したともいわれており、
桑名浄土寺に葬られていましたが、
分骨して建立したものであるとのことです。
本多忠勝の正室である
於久の方(おひさのかた、阿知和玄鉄の娘。通称見星院)は
本多忠勝が桑名へ転封後も
この地に残り、慶長18年(1613年)に
大多喜城で没したと伝えられています。
次男の本多忠朝は、大阪夏の陣で
毛利勝永軍に正面から突入し、
壮烈な戦死をとげ(享年は34歳)、
大阪一心寺に葬られましたが、
分骨しここに埋め、
その法号により 良心寺は
良玄寺と寺号を改めたとのことです。
現在もこの墓所は、
町指定文化財として残っており、
平成17年3月墓所に隣接した場所に
公園が整備され、
忠勝公園として今日に至っています。
ちょっとした展望台があり、
大喜多城の天守を見ることができます。
【所在地】
〒298-0214 千葉県夷隅郡大多喜町新丁(しんまち)186
【駐車場】
良玄寺の参拝者用の駐車場があります。
【トイレ】
男女別の水洗トイレがあります。
【良玄寺】
浄土宗のお寺です。
天正18年(1590年)、
10万石の領主として
大多喜へ入城した本多忠勝は、
菩提所としてここに良心寺を建立して、
下総小金(現、松戸市)東漸寺の
僧了学を招き開山とし、
寺領に100石を寄進しました。
慶長5年(1600年)、
関ヶ原合戦の翌年に
本多忠勝は伊勢桑名へ移封となり、
次男の本多忠朝が5万石で大多喜城主になりました。
元和元年(1615年)、
本多 忠朝は大坂夏の陣で戦死し、
甥にあたる本多政朝があとをつぎ、
寺の名を忠朝の法名をとって
良玄寺と改めました。
この寺を開いた了学は、
のちに、飯沼弘経寺(現、水海道市)を再興しましたが、
本多忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、
再び弘経寺へ帰りました。
その後寛永9年(1632年)、
了学は、徳川秀忠に召されて
江戸に入り、芝増上寺17世となりました。
寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、
特色ある武将の像として
県指定文化財になっています。
現在千葉県立中央博物館大多喜城分館に
寄託されています。
(閉館中)
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また、境内にある
本多忠勝・忠勝夫である於久の方・
本多忠朝の五輪の墓碑や
寺領寄進状などは、
町指定文化財となっています。
中央の本多忠朝五輪塔の後方にある墓碑銘に
右から縦書で次の通り刻まれています。
見星院殿蓮譽光信大禅定尼
大多喜城主本多中務大輔忠勝侯奥方
慶長十八年九月十四日大多喜城内に於て卒去
西岸寺殿前中書長譽良心大居士
大多喜城主本多中務大輔忠勝侯
慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳
三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
大多喜城主本多出雲守忠朝侯
元和元年五月七日大阪夏の陣に於て戦死行年三十四歳
平成2年3月
【寺の所在地】
千葉県夷隅郡大多喜町新丁(しんまち)180
【本多忠勝公の銅像】
夷隅川(いすみがわ)にかかる行徳橋の欄干にあります。
<東側>
【所在地】
〒298-0214 千葉県夷隅郡大多喜町新丁145
【交通アクセス】
いすみ鉄道 大多喜駅下車、徒歩約13分
【駐車場】
無し。
橋のわきに短時間であれば停めるスペースはあります。
「大喜多城址」「忠勝公園」と
併せてどうぞ。
大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。
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