【白虎隊十九士の墓】
白虎隊十九士の墓
(ビャッコタイジュウキュウシノハカ)
戊辰戦争のおり、16~17歳の少年達で
編成され飯盛山で自刃した
白虎隊(白虎士中二番隊)19人の墓です。
戊辰戦争のおり、16~17歳の少年たちで
編成された白虎士中二番隊が
戸の口原合戦場から退却し、
滝沢峠の間道を通り、
戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、
鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れしていました。
「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、
全員が自決しました。
1人だけ生き残った飯沼貞吉によって、
白虎隊の忠義と悲運の物語は
広く人々に知られるところとなりました。
春と秋の年2回行われる墓前祭では、
白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。
飯盛山を、階段、
またはスロープコンベア(有料)を
登りきった広場の奥にあります。
その横には戦死した
白虎隊三十一士の墓も並んでいます。
広場内には白虎隊の精神に
感銘を受けたローマ市から
寄贈された記念碑なども建っています。
<会津藩殉難烈婦の碑>
戊辰戦争で自刃または戦死した
婦女子230余名の霊を弔うために
昭和3年に元白虎隊士であった
山川健次郎氏らの
篤志家によって建てられました。
<白虎隊士遠藤嘉竜二墓>
白虎寄合一番隊。
兄は遠藤敬止です。
兄の遠藤敬止は籠城戦に参加し、
後に仙台の七十七銀行頭取になりました。
鶴ヶ城競売の報を聞くと、
私財を投じ落札して、
旧藩主に献上したのでした。
鶴ヶ城跡が姿を留めているのは、
遠藤敬止の功績によるとのことです。
<飯沼貞雄翁の墓>
飯盛山で自刃した白虎隊士の中で、
ただ一人だけ蘇生した人物です。
戦後は名を「貞吉」から「貞雄」に変えました。
逓信省通信技師として
北海道から九州にいたる
全国の電信電話の発展に貢献したとのことです。
ただ一人だけ生き残ったことを
恥じていたということですが、
生き残ったからこそ白虎隊士自刃の事と、
命を散らしていった同じ
若い仲間たちの生きざまを
歴史の貴重な証言として
後世に残せたのです。
<通行止め>
写真の道はロープが張って有り
立ち入り不可です。
自刃の地への注意書きがあります。
【所在地】
福島県会津若松市一箕町八幡弁天下
【交通アクセス】
<バス>
まちなか周遊バス
ハイカラさん・あかべぇ「飯盛山下」下車、徒歩5分
<車>
磐越自動車道「会津若松」ICより約15分程度。
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【駐車場】
飯盛山市営駐車場をご利用ください。
※飯盛山観光案内所の隣です。
TEL:0242-33-6030
<飯盛山市営駐車場>
〒965-0003 福島県会津若松市一箕町大字八幡牛ケ墓
飯盛山観光の時にどうぞ。80台。
午前8時30分より
◆白虎隊十九士の墓
◆会津さざえ堂
◆戸ノ口堰洞穴
◆白虎隊自刃の地
など
【白虎隊の自刃の地】
江戸時代後期、
戊辰戦争に際して新政府軍と
幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、
会津藩では藩士子弟の少年たちで
構成される白虎隊が結成され、抗戦しました。
そのうち士中二番隊が
戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、
白虎隊士らは負傷者を抱えながら、
飯盛山に落ち延びていきます。
そして、白虎隊の少年たち17名が
最後に辿り着いたのが、
遠く西南に鶴ヶ城が眺められる、
この飯盛山の中腹でした。
そこで彼らは、天守を覆い隠す、
激しい炎と黒煙を見てしまいます。
武家屋敷の大火災を目にし、
若い彼らは、戻って
生き恥を晒すよりは、と
死を選んだのでした。
【戸ノ口堰洞穴】
飯盛山の山腹に、水流の中、
口を開けている洞門があります。
これは、猪苗代湖の水を、
会津地方に引くため掘られた用水路の洞穴で、
戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)といいます。
猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで
破れた白虎隊士ら20名は、
鶴ヶ城を目指して、
この長さ約150メートルの洞穴を潜り、
命からがら、飯盛山の中腹へと至ったのでした。
冷たい水が容赦なく流れる洞穴の中を、
身を屈め、足を取られながらも、進んでいきました。
そうして、飯盛山の中腹に辿り着いた末、
彼らは城下の炎と黒煙を目の当たりにするのでした。
【飯盛山】
飯盛山(いいもりやま)は
福島県会津若松市の中心部から少し
東側にある標高314mの山とまたその周辺です。
会津若松市一箕町(いっきまち)に位置し、
JR会津若松駅からはほぼ真東にあたります。
会津盆地の東端でもあり、
近隣には白虎隊記念館や暖地などがあります。
「飯盛山」という名前の由来は、
この山が飯を盛ったような形なので、
この名前が付けられたとのことです。
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【飯盛山古墳】
飯盛山山頂には全長60mの前方後円墳があります。
会津大塚山古墳(新)と堂ヶ作山古墳(古)の
中間の時期に比定されており、
この3基(一箕古墳群)が
会津盆地東南部を治めた王墓と考えられています。
所要時間:30分程度(駆け足気味)
※さざえ堂見学除く
会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。
旧滝沢本陣~国の重要文化財、会津藩主の休息所であり白虎隊の出陣の地でした。
会津武家屋敷~会津藩家老の西郷頼母邸・藩米精米所など、江戸期の会津の歴史が学べます。
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