【鎮海山城】
村上武吉の城です。
芸予諸島の要地、来島・能島・因島を拠点とした
三島村上氏の中で
最大勢力の能島村上氏は、
天正13年(1585年)、
豊臣秀吉の四国平定後の領地替えにより
能島水軍城(愛媛県越智郡宮窪町)から
小早川隆景の領地である竹原に移り、
鎮海山城を本拠としました。
別名は竹原城とも鎮海城とも言います。
標高約90mの最高所を本丸として
数段の郭と1ヶ所井戸跡があります。
城跡の麓には、
嫡男である村上元吉の宝篋印塔と
その家臣たちのものと思われる
五輪塔9基があります。
九州攻めのあと、1586年に
小早川隆景が筑前(福岡)37万石として
移封されると、村上武吉も
小早川家に従いました。
<竹原の町並み>
2014年9月~2015年3月まで
放送された朝ドラ「マッサン」のモデルである
竹鶴政孝の出身地です。
村上武吉と嫡男である村上元吉は、
小早川隆景が隠居すると、
小早川秀秋に従って長門へと移りました。
1598年、豊臣秀吉が死去する直前に、
村上武吉は豊臣姓を授かります。
そして、毛利輝元の命を受けて、
竹原に戻ると鎮海山城主として4700石にて
返り咲いています。
その後、関ヶ原の戦いでは、
村上元吉と弟である村上景親らは
毛利勢に従って、
伊勢湾沿岸、紀伊沿岸、阿波・徳島城を攻めました。
けれども、加藤嘉明の伊予・松前城を攻撃した際に、
佃十成より三津浜夜襲を受け、
1600年9月18日、
嫡男である村上元吉が討死しました。
享年は48歳でした。
そして、毛利家は防長2カ国へと減封されたので、
その後の毛利氏の防長移封にともない、
村上武吉は村上元武(長男:村上元吉の子)、
次男である村上景親(元吉の弟)、
能島一族と共に
再度竹原を離れて、周防大島に移りました。
1601年には和田に住みついたとされています。
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【能島水軍城から移った経緯】
1582年の明智光秀による本能寺の変のあと、
豊臣秀吉と毛利輝元が和睦します。
そして毛利家と豊臣家は村上水軍の中でも
早くから臣従した来島城主である
来島通総(村上通総)を重用します。
そして、豊臣秀吉は来島通総(村上通総)の
旧領である来島の返還を要求しますが、
能島村上水軍の頭領である
村上武吉は当然のように拒否します。
更には、四国攻めにも村上武吉と
嫡男の村上元吉が参加しなかったことから、
豊臣家に臣従していた
毛利家及び小早川隆景から
村上武吉の本拠地である能島城は攻撃を受けました。
これにより、村上武吉は本拠地であった
能島城を明け渡して降伏すると、
小早川家の所領である
竹原(広島県竹原市)に
強制移住させられ、
この鎮海山城を築くに至ったものと考えられています。
【所在地】
〒725-0023 広島県竹原市田ノ浦2丁目2−18
【登城口】
3ヶ所あるようです。
そのうち、北側の登城口が登るには
最も緩やかであるようです。
北東にある竹原小学校と
貞光両神社の間の道路を入って、
鎮海山城の東側に回り込みます。
やがて鎮海山城登城口の案内板を目にします。
案内板に書いてある通りに右折します。
そして山道へと入り、竹林の中を登って行きます。
竹藪の中を登りますが、
遊歩道が整備されています。
尾根に出て右へと登ると
まもなく本丸跡とのことです。
村上元吉の墓へは鎮海山城の本丸から
北へと降りていきます。
すると道は途中から西へ向います。
だいぶ降りて行くと、
開けたところに村上元吉の墓があります。
村上元吉の法篋印塔が1基あり、
その脇には、松前城攻めにて
討死した家臣の墓と考えられる
五輪塔が9基が並んでいます。
季節が暖かい時は雑草と藪と虫対策が必須ですので
冬季の登城が良いかもしれません。
村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)~能島村上水軍の当主で「日本最大の海賊」と評された人物
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