城跡

修善寺城~南北朝時代の関東管領及び伊豆守護であった畠山国清の乱

修善寺城跡



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修善寺城跡】

中世に畠山国清が築いたと伝わっています。

【縄張形態】
山城
【標高(比高)】
248m(200m)
【築城主】
畠山国清
【築城年】
着工 1361年(康安元年/正平16年)着工と伝わる

【廃城年】

主な改修者
【主な城主】
畠山国清
【遺構】
曲輪、土塁、石塁、井戸

【修善寺城の歴史】
修善寺城は伊豆国守護であった
畠山国清によって築かれた城です。

康安元年(1361年)、
室町幕府の関東管領足利基氏の執事であった
畠山国清は、弟二人と共に足利基氏に謀反をおこし、
五百騎を用いて伊豆に逃げ下り、
三津・金山・修善寺の三城に立てこもったとあります。
やがて関八州の軍勢二十万騎に攻め込まれ、
最後にこの修善寺城に立てこもりましたが、
水と食料を絶たれてしまい、
翌年に降伏、開城したとの事です。

その後は狩野氏の出城となったと考えられていますが、
伊勢盛時(北条早雲)が狩野氏を滅ぼすと
廃城となったのではないかと考えられています。

【現在の修善寺城】
現在、山頂の主郭部には
テレビアンテナが建てられています。
また、かつてはロープウェイが西麓から
伸びていたそうで、その待合室となっている駅舎跡と
基壇のコンクリート平面が残っています。
更に営業当時は飲食店も営まれており、
動物園もあったそうです。
そのため、遺構の判別が難しくなっているとの事です。

標高248mの城山山頂にある本丸跡は平地です。
石塁や井戸跡があるとのことです。

【所在地】
〒410-2414 伊豆市本立野(城山)

【電話番号】
0558-72-2501(伊豆市観光協会修善寺支部)

【交通アクセス】
修善寺駅より城山麓まで車7分・山頂まで徒歩

<電車>
伊豆箱根鉄道駿豆線・修善寺駅から徒歩40分
城山神社から主郭まで約15分
<車>
修善寺道路・修善寺ICから5分
伊豆スカイライン・冷川ICから25分

【駐車場】
城山神社駐車場⇒道幅が大変狭く脱輪にご注意との事

【畠山国清】

畠山 国清(はたけやま くにきよ)は、
南北朝時代から室町時代の武将及び守護大名です。
足利氏の支流畠山氏出身。
和泉、紀伊守護を経て関東管領となりました。
伊豆守護家の祖。
父は畠山家国。弟に義深などがいます。
子は義清、義晴です。




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【足利直義から足利尊氏に付く】
足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕、
建武の新政から離反した後の
南朝との戦いで和泉、次いで紀伊の守護となりました。
後に河内の守護にもなり、畿内に勢力を広げました。
足利家の内紛から発展した
観応の擾乱では足利尊氏の弟である足利直義に属し、
政争に敗れた足利直義が京都を脱出して
吉野の南朝に属すると畠山国清も従いますが、
後に足利尊氏方に付き、武蔵野合戦に参戦しています。

【大阪の戦は敗走】
延元元年/建武3年(1336年)9月11日、
南朝の武将岸和田治氏と戦い、
一時は八木城(現在の岸和田市八木地区か?)
まで撤退させたとありますが、
蕎原城(大阪府貝塚市蕎原)まで撤退して籠城の末、
敗走となっています。

【関東管領になる】
正平8年/文和2年(1353年)、
足利尊氏が関東地方の統治のために
設置した次男の鎌倉公方である
足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、
伊豆の守護となりました。
同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し、
遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率い、
武蔵守護にもなり権勢を振るっています。
正平13年/延文3年(1358年)に
南朝方の新田義興を謀殺しています。

【政治的立場が危うくなる】
正平14年/延文4年(1359年)、
2代将軍足利義詮からの援軍要請を受け、
関西に攻め上り、陣中で仁木義長と対立となり、
幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、
仁木義長を政治から失脚させます。
けれども正平15年/延文5年(1360年)には、
今度は細川清氏が足利義詮と対立し失脚。
畠山国清は政治的に苦しい立場となります。
畠山国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還。
更に細川清氏の投降で攻勢に出た南朝により
京都が一時失陥する事態を招くことになり、
これにより畠山国清は更に
政治的立場が危うくなるのでした。

【伊豆へ逃れて修善寺城で立てこもる】
正平16年/康安元年(1361年)11月、
かつての足利直義派の武将達から
足利基氏に対して
畠山国清の罷免の嘆願が出されると、
畠山国清は失脚し領国の伊豆へ逃れていきます。
そこで畠山国清は伊豆の豪族達を糾合することで
足利基氏に抵抗しようとしたのですが、
伊豆の豪族達の協力は得られることはなく、
三津城や金山城を落とされるなど
敗戦を繰り返していきます。
そして最後の牙城として籠城した修禅寺城も落城となり、
そこで足利基氏に降伏したのでした。

【畠山国清の消息】
その後の畠山国清の消息は
定かではありません。
降伏時に斬殺されたとも
流浪の末に大和で窮死したとも言われています。
「津川本畠山系図」によりますと
正平17年/貞治元年(1362年)、
畠山家記では
正平19年/貞治3年(1364年)
に没したと伝えているということです。

【その後の畠山氏】
畠山国清の失脚・叛乱によって
畠山氏は一時没落しましたが、
後に弟である畠山義深が足利義詮に許されて
越前守護に任命され、
以降の畠山氏の嫡流は弟である
畠山義深の系統に移ったとされています。

七尾城跡~国史跡の日本五大山城~能登畠山氏の本拠地。上杉謙信、前田利家も登場する能登の歴史攻防の城。

金山城(城山 (伊豆の国市))~畠山国清が籠った城ですが今はハイキングとロッククライミングで有名です。

修善寺温泉~伊豆最古の湯治湯で歴史・文学・豊かな自然が調和よくブレンドされた処です。

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