史跡・城跡

オヤケアカハチ~琉球の侵攻から石垣島を守ろうとした豪族の首領で先島諸島では英雄です。 

オヤケアカハチの像 石垣島



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オヤケアカハチ

オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂、於屋計赤蜂)は、
沖縄県の石垣島の大浜村
(現在の石垣市大浜)を
根拠地とした15世紀末の豪族の首領です。

アカハチの別名としては
諸説ありますが、堀川原赤蜂、
ホンカワラアカハチ、
アカハチホンカワラなどがあります。

オヤケアカハチの生誕地は
波照間島で、幼少の頃から
豪傑としての頭角を
表していたという話がありますが、不詳です。
波照間島には生誕記念碑があります。

琉球王国(中山)側の歴史資料上には
大浜の一豪族として登場しています。
「妻は石垣村の長田大主(なあた うふしゅ)の
妹の古市(古乙姥、くいつば)。
オヤケアカハチは八重山の首領として
島民の広範な支持を背景に、
中山への朝貢を2-3年断ち、
さらには我が臣民である宮古を攻めたため、
1500年2月13日に
琉球軍の軍船大小100艘、
琉球兵3000人を送り込み、
これを討ち取った。」とあります。
これがオヤケアカハチの乱です。

大浜海岸(石垣島)

元来の宮古・八重山の両先島は
琉球に属さない大平山(タイビンサン)
という連合であったともされています。

・・・沖縄本島とはだいぶ離れているし、
台湾の方が近い死・・・。
で、税をがっぽり要求されたら・・・
それは・・・いやだよね。

代々宮古の首領一族である
空広(ソラビー、仲宗根豊見親/なかそね とぅゆみゃ)が
15世紀に入ってから
中山王府に恭順して
琉球の朝貢国となり、
さらには八重山にも
同様の主従を求めてきたのでした。

それに対抗したのが
オヤケアカハチ率いる八重山という
構図であったともことです。

忠導氏家譜正統、長榮姓家譜大宗、
八重山島年来記といった
宮古・八重山に残る諸史料に共通して
記されているのは、アカハチに全島民が同心し、
厚い信頼を得ていたとあります。
「オヤケアカハチの乱」では
男性島民だけにとどまらず、
女性島民も沿岸に立ち呪詛によって
琉球軍の侵攻に対抗したと記録されています。

<大浜地区の御嶽>
大浜地区の御嶽
※地元の人間ではないので私が入れるのはここまで。

現在、石垣島の崎原公園に鎮座する
「オヤケ赤蜂之碑」の碑文によりますと、
「石垣の土着神である
「イリキヤアマリ神」の祭祀を
琉球の尚真王が弾圧したため、
1500年にオヤケアカハチが
島民の先頭に立って反旗を翻して奮戦したが、
討ち取られた。」のように記されています。
また、大浜公民館近くには
「オヤケアカハチ之像」があり、
こちらの碑文には、「西暦1500年(明応9年)、
当時の琉球王府への朝貢を拒否、
反旗を翻した驚天動地の
オヤケアカハチの乱の
主人公・オヤケアカハチの銅像。
-その人物像は独立心が強く、
体つきが人並みはずれた大男、
抜群の力持ち、
髪は赤茶けた精悍な顔つきの若者-
と伝えられています。
正義感が強く、島の自由のために
先頭に立って権力にたち向い、
八重山の人々から太陽と崇められ
信望を一身に集めていました。
爾来、今日まで
英傑・オヤケアカハチの遺徳は
石垣島の人々に『アカハチ精神』
として受け継がれている。」のように
記されているとのことです。




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敗北し、命をおとしましたが、
琉球の侵攻から
大平山を守ろうとした
オヤケアカハチは、
先島諸島の英雄として
現在に伝わっているほか、
イリキヤアマリ神を伝える御嶽[注釈 5]も
石垣島に残っており、
変わらず信仰の対象となっているとのことです。

現地の伝承ではオヤケアカハチの居宅は
現在の大浜公民館の辺りとされていますが、
一部の学者は「フルスト原遺跡」を
オヤケアカハチの居城跡に比定しています。

【オヤケアカハチの乱】
オヤケアカハチの乱(遠弥計赤蜂の乱)は、
1500年に八重山の首領である
オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)と、
琉球王国(中山)との間で
行われた戦争です。
琉球が勝利し、アカハチは殺害されました。
オヤケアカハチ戦争とも言うそうです。

【原因】
琉球の正史では、
別名:赤蜂征伐と記録されており、
攻撃の理由として以下の2点が挙げられています。
「八重山は洪武年間より毎年かかさず朝貢国として貢
物をしていたのに、それを2~3年断った。
加えて臣民である宮古を攻めようとした。
よってこちらから攻めた。」

そして諸史料は一致して、
大平山(タイビンサン、宮古・八重山の両先島)
の朝貢が断たれたのは、
大浜のアカハチが謀叛したせいだと述べています。
宮古・八重山の誰が
毎年朝貢していたのかは不明であり、
1500年以前にそういった記録は
中山側にも大平山側にもない、とのことです。

当時の宮古は空広
(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)
という代々続く首領一族に統治されていました。
忠導氏家譜正統に曰く、
「宮古の民は争いを好んだ。
空広は考えて、これは米粟が豊饒なためである。
主国(琉球国中山)に賦税をお願いして
朝貢しよう。こうして命令を請うて
主国の役人に駐屯いただき、
諸村に人頭税を定めたところ、
農業を怠らなくなった。
このとき空広は八重山に航し、
八重山の酋長を諭し、相共に附庸国の職分を守り、
毎年かならず朝貢の員数を定め、
主国に朝見し、臣民としての忠誠を
尽くそうと述べた。」
この時、大浜のアカハチホンカワラは同意せず、
かえって宮古島を襲おうとしたので、
主国に訴えたとしています。
これは前述の琉球側が記録する
「洪武年間より毎年朝貢していた」
という記述と矛盾し、
また誰を指して八重山の酋長と
述べているのかは不明です。

しかしながら、
7世祖父の根間大按司の代から
宮古を統治していた首領である空広が
唐突に「住民が好戦的」
「豊か過ぎる故の怠慢」と嘆き、
その解決策として何故か主権を放棄し、
「主国への朝貢」を挙げ、
さらに「八重山にも同様の朝貢を求める」
など不自然な点が多く、
これらは後年になって
琉球国中山への忖度によって
書き換えられた記述であると考えられています。
稲村賢敷は、
「空広が諸村に税制を定め、
中山に朝貢を始めた」という記述と、
「球陽(141号)」に尚真王の事績として載る
「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、
税を定め貢を納れしむ」を根拠として、
オヤケヤカハチの乱を以って
大平山(タイビンサン)が
琉球に取り込まれたとしています。
つまり朝貢国としての
忠誠を示すために
八重山諸村にも
定租を課そうとしたことで、
アカハチを挑発した、と説明しています。




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また、八重山の諸史料では
「アカハチホンカワラという二人」とし、
アカハチホンカワラは
二人いたと言う点で一致しています。
さらに長榮姓家譜大宗は、
「ホンカワラ及びアカハチという者二人」と明言し、
ホンカワラとアカハチは
別人であるとの見解を示しています。
少なくとも宮古においては、
カワラというのは
人名として珍しくないそうです。
空広の先祖には別名
「祢間津のかわら」と呼ばれた
普佐盛豊見親がいます。
ただし、この場合「カワラ」とは
首領格の称号であることから、
同じく「ホンカワラ」とは
大酋長という意味であり
「アカハチホンカワラ」
とは二人の名称ではなく、
アカハチ一人を指しているという意見もあります。

また、これら八重山の諸史料は、
アカハチに全島民が
同心していたことも一致して
記述されています。

【開戦前】
アカハチは急いで檄文を各所に発して、
衆民を集めて、
「中山(第二尚氏)の大兵が、
来たって我が境を侵さんとしている。
汝ら、よく鋭気を奮い、
速やかに出で迎戦せよ。もし、
命令に違いて怠惰すれば、
法に依りてただちに斬り、
敢えて許さない。」 
前述のように、全島民はアカハチに
同心し服従したが、
次の5人は服従しなかったとのことです。
島の長者、石垣村の長田大主(ナータフーズ)、
その弟2名、那礼当、那礼重利、
川平村仲間丘の首領、
仲間満慶山(ミツケーマ)、
波照間住人明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)です。
那礼当、那礼重利、満慶山、シシカトノは殺されました。
長田大主はあちこち逃げ隠れして
度々危地を脱し、
ようやく古見(西表島)まで
逃亡して洞窟の中に隠れたとのことです。

なお、仲間満慶山の子孫を称するのが
現在の憲章姓一門とのことです。
その家譜は満慶山について
「元祖の曽祖父は満慶山である」
という事としか述べていないそうです。

先述の如く、アカハチは
第一に中山(琉球)と我ら(大平山)との間には
境がある、第二に琉球が
それを侵そうとしているとの
認識を示していたのですが、
琉球は一貫して、アカハチの行為は
中山に対する「謀叛」「叛逆」であるとし、
アカハチ攻撃の正当性を主張しているとのことです。

アカハチが琉球の「侵」と定義する行為は、
琉球側にとっては「地方統治の強化」であるという
見解を示している専門家もいます。
更に逆に琉球が攻撃を受けた
琉球征伐に関しては、
「琉球側にとってはまぎれもなく
侵入・侵寇・侵略の事件だった」
とダブルスタンダードな見解を示しています。




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<ひとりごと>
・・・何かズルいのう・・。
被害者として訴えながら
一方では加害者。
だからなのかな?
正直「琉球王朝」があった本島には
実は空港以外立ち寄ったことはないのです。
石垣島には3回訪問したのですが。

【戦闘】
琉球船団は空広が先導したとのことです。
琉球まで行って通報したのも空広です。
空広なしに、八重山まで行く航海能力が、
果たして中山にあったかどうかは不明とのことです。

琉球王府は9員を将としました。
将軍としては、筆頭大里親雲上の他、
9番大将として、安波根里主直張が知られています。
軍船大小100艘、3000人で、
弘治13年(1500年)庚申2月2日、那覇より出発し、
13日に八重山石垣に到着。
逃亡していた長田大主は大喜びで、
小舟で古見から出てきて、
中山軍の道案内を務めたとのことです。

その地の女性たちは、皆、草木の枝を持って、
天に号し、地に呼んで
官軍を呪詛攻撃をしていたとのことです。
乗船が上岸したのに、
ほとんど畏惧する様子は無く、
賊首の堀川原赤蜂(ホンカワラアカハチ)は、
真先に出てきて戦を挑んできました。
中山兵は、崖に近づいて、
お互いに罵りあいました。
しかし悪日を忌んだので戦わず、軍を引いて退却。
20日甲辰、46艘(そう)を分けて両隊と為し、
一隊は登野城を攻め、一隊は新川を攻め、
その地で、両辺相戦ったとのことです。
アカハチは応じる事ができず、
官軍はこれに乗じて攻め続け官軍が勝ったのでした。

大浜海岸(石垣島)

新川・登野城は現用されている地名で、
石垣四箇字の左右の端にあたります。
このように離れた場所で
同時に攻撃をかけたので、
アカハチは対応できなかったとのことです。

【戦後処理】
「球陽」162号によりますと、
琉球は初めて空広を宮古頭、
二男マチリンガニ(真列金)を
八重山頭に任命しました。
ただし「忠導氏正統家譜」「球陽」109号は、
この時はマチリンガニの
八重山守護奉命のみを認めています。
この二者は、尚真王代の宮古頭云々は
無視する一方、空広は尚円王に
朝見した際に「宮古島主長」職を
奉命した事を述べており、
この職が一貫して継続しているとの
見解を示しています。
「家譜」によりますと、
マチリンガニは4年勤めた後、
三男チリマラ(知利真良)と代えられました。




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「球陽」162号は、
マチリンガニは人民を虐待したので
退官させたと述べています。
空広は八重山平治慶賀のために
朝見した際、宝剣治金丸一振、
宝珠一個を献上し、
中山は簪一個と白絹衣一領を下賜しました。
また彼は漲水御嶽に
「逆徒を追討できたら
御嶽の周囲に石垣を新築します」
との願をかけていたので、
帰島のときに実行したとのことです。

<大浜地区の御嶽>
もうひとつあります。
大浜地区の御嶽
開放的な感じですが、やはり鳥居の先は遠慮します。

長田大主は古見大首里大屋子に抜擢。
これは後に改称されて
石垣八重山頭職となりました。
これが八重山の頭の始まりとなりました。
ここでいう「八重山頭職」の始めと、
先のマチリンガニの「八重山頭」奉職との
整合性は不明です。
また当時の「八重山頭」に
どこまで実態があったのかも不明です。

那礼当の幼子、保利久思は
美良底首里大屋子となりました。
仲間満慶山の男子は、
8人とも首里大屋子になりました。
シシカトノの男子三人は
与人になりました。
女子三人は女頭職になりました。

長田大主には二人の妹がいました。
名前は古市、真市ですが、
そのうち古市はアカハチの妻だったので
夫と共に殺害されました。
真市はイラビンガニという
神様の神人に任命されました。
姪の宇那利は大阿母職に任命されました。
姪の方が高位ですが、
これは真市が譲ったためでした。

当時の中山兵は神託をあまり信じていませんでした。
けれども、イラビンガニは蒼天を定められ、
神妙な御霊威を顕された事が述べられています。

【逸話】
アカハチが討たれた結果、
八重山は中山に恭順する
仲宗根豊見親と
アカハチと対立していた石垣の豪族、
長田大主の勢力圏に収められました。
敗れはしたものの、
琉球の侵攻から
現地の民俗を守ろうとしたアカハチは、
地元の英雄として現在に伝わっているほか、
イリキヤアマリ神を伝える御嶽が
石垣島に残っています。
なお、小浜島には、
戦いに敗れたアカハチが
逃げ込んだという伝説のある、
オヤケアカハチの森があります。

一方、琉球王国側について久米島の
君南風ノロは、
中山より大阿母(一地方の最高位のノロ)
に匹敵する格づけで、
久米島ノロの最高位の地位を与えられました。
加えて勾玉を授けられ、
「おもろさうし」にも謡われる英雄となりました。
この戦争から500年以上たった現在も、
君南風ノロは久米島最高位の
ノロとして久米島の祭祀を司っています。
またこの史実から、
君南風は勝利の軍神とされ、
久米島キャンプをしたプロ野球チームが
君南風神殿に参拝することが知られています。




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また、石垣からの琉球軍の帰路の安全を祈り、
安全な航海のための神託を与えた
石垣の神女マイツバ(長田大主の姉)は、
その後琉球より褒賞として
金のかんざしと現地のノロやユタを統括する
八重山初の大阿母職(高級神女職)
に任命されましたが、
大阿母職を固辞し、
代わりにイラビンガミ神職
(イラビンガミ神に仕える神女)を拝命しました。
彼女が琉球軍の帰路の無事を願った場所は
美崎御嶽となり、石垣島の重要な御嶽となりました。
また、彼女の墓地には
マイツバ御嶽が作られ、
ともに現在も信仰を集めているとのことです。

この戦いで石垣島に遠征した将軍の
大里親方は、竹富島の西塘(にしとう)
なる人物を見出し、首里へ連れ帰りました。
西塘は首里で学問を修めて土木建築家となり、
1519年に尚真王が首里城を出るたびに
御願(うぐぁん:祈祷)を行う
園比屋武御嶽の礼拝所となる石門を
建築したことで知られています。
その後、八重山を統治する
身分(竹富大首里大屋子)として
竹富島に戻り、その後石垣島に移って
八重山地方の蔵元(琉球王国の地方行政官庁)を置きました。
竹富島には園比屋武御嶽の神を勧請して
国仲御嶽(フイナーオン)を造成しました。
この御嶽は八重山で唯一、
琉球王府の神につながる御嶽であり、
竹富島の村御嶽として
国の守り神とされています。
彼の死後、竹富島の墓地には
西塘御嶽が置かれ、
その功績を讃えて現在も信仰されているとのことです。

【オヤケアカハチの碑】
1953に鬱蒼とした緑の中に
茂った崎原公園にオヤケ赤蜂之碑が建立されました。
その横にはオヤケアカハチに
寄り添っていた妻の古乙姥(くいつば)
の石碑である古乙姥(くいつば)之碑があります。
オヤケアカハチの妻だった古乙姥は、
敵対関係であった長田大主(なーたふーず)の妹です。
当時は政略結婚としてアカハチに嫁いだとのことですが、
兄の企みに応えず
オヤケアカハチのことを
しっかりと理解し支え続けたのでした。
古乙姥もまたオヤケアカハチの乱にて命を落としました。

オヤケアカハチの碑

崎原公園から大浜公民館の方には
いくつも御嶽があり、
オヤケアカハチの像が建立されています。

【オヤケアカハチの碑・所在地】
〒907-0001 沖縄県石垣市大浜203

【交通アクセス】
オヤケアカハチの碑は
バスターミナルからバスで15分、
大浜のバス停から徒歩で約6分、
新石垣空港から車で約16分、
離島ターミナルから車で約14分
の場所に位置しています。

<新石垣空港より>
新石垣空港を出て国道390号線を南下。

しばらく道なりに進み、宮良橋を渡ってまっすぐ進む。

左手に大浜公民館が見えたら、
そこを左折し、
道なりに進むと左手に
オヤケアカハチの碑が見えてきます。

<離島ターミナルより>
離島ターミナルを出て右に曲がり、
国道390号線を東方へ進む。

大浜公民館が見えたら右に曲がり
真っ直ぐ進んで左手にあります。

【駐車場】
専用の駐車場は見当たりませんでした。
短時間なら路上に停車できます。
付近には芝生広場やトイレがあります。
オヤケアカハチの碑までは遊歩道があり、
更に先に進むと大咲海岸に出られます。

フルスト原遺跡~国の史跡で八重山の英雄であるオヤケアカハチの居城跡とも云われてきました。

桃林寺~八重山列島で最古の仏教寺院、山門の仁王像は津波で流されたものの、戻ってきました。

唐人墓~「ロバート・バウン号事件」の哀しい犠牲者、今は夕陽の眺めが良い場所で静かに眠っています。

黒島(沖縄県竹富町)(動画あり)~人よりも牛の数が多く、ウミガメの浜もあるハートアイランド 

竹富島(動画あり)~伝統的な赤い屋根瓦とシーサーと碧い遠浅の海と星砂の浜がある島です。

川平湾(動画あり)~刻々と様々な碧い海色になるミュシュランガイド3つ星の景勝地。

白保海岸~新石垣空港から車で約5分の白い砂浜が美しい海岸、アオサンゴの群生地でも有名です。

名蔵アンパル~亜熱帯気候特有の動植物が分布、ラムサール条約登録地となっています。

石垣やいま村~名蔵アンパルに隣接している日本最南端及び最西端のテーマパークです。

吹通川マングローブ群落(吹通川ヒルギ群落)~ドライブがてら気軽に見学できます。

平久保崎灯台~石垣島最北端の絶景地に位置しており、「恋する灯台」に認定されています。

石垣御神崎灯台~神が舞い降りる聖地であった岬にあり、荒々しい波と断崖絶壁と夕陽が見ごたえです。

玉取崎展望台~平久保半島や石垣島の碧い海を堪能できる眺めの良い展望台です。

石垣島鍾乳洞(動画あり)~日本最南端の鍾乳洞で、鍾乳石の成長が早く圧巻の空間が広がっています。

伊原間サビチ鍾乳洞(動画あり)~日本で唯一となる海へ抜ける鍾乳洞、洞窟を抜けるとそこは綺麗な碧い海だった!

八重山鍾乳洞~かつては人気のスポットでエリア内の龍神鍾乳洞が有名でした。

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