城跡

甲斐・須沢城~南北朝・観応の擾乱にて落城、須沢城の悲劇として後世に語られる逸話があります。

甲斐・須沢城



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【甲斐・須沢城】 

御勅使川扇状地を見渡せる高台にある山城の跡です。
城跡らしいものは残ってはいませんが、
城の本丸に当たるところに
室町初期のものとみられる
宝篋印塔や五輪塔が数基建てられています。
築城は不明ですが、南北朝の頃と推定されています。

城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる
甲斐源氏の逸見孫六入道と言われています。
他には御勅使十郎、塩谷三郎が伝えられています。

【落語にもなったエピソード】
正平5年/観応元年(1350年)12月、
足利家執事高師直と足利尊氏の弟である
足利直義が対立して
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)となります。
高師直の従兄弟で播磨守、関東官僚の一人として
活躍していた関東執事の高師冬は
足利直義派の上杉憲顕に敗れ、
甲斐国の須沢城へ逃れました。
当時の城主は「太平記」にもその名がみえる
甲斐源氏の一族である逸見孫六入道と云われています。
          
須沢城はまもなく足利直義方である
諏訪直頼の軍勢に包囲されます。
その中に諏訪五郎長久がおり、
高師冬が烏帽子親でした。
そして攻める側の親方に別れを告げ、
落城寸前の須沢城に入ったとされています。
けれども、多勢に無勢で二人は
自害に及んだということです。
そして翌年の正平6年/観応2年(1351年)
1月17日に一月落城しました。

この逸話は「満天の星」という落語となっており、
大月市出身の落語家である
林家正雀(しょうじゃく)氏が
須沢城の話に材をとり創作したとのことです。

落城後の須沢城はこの後の史料に登場することはなく
廃城となったものと推測されています。
城址内に建つ善応寺は
弘安年間(1278年~1287年)に
笹見浦政綱なる人物を開基として
建立されたと伝えられています。
笹見浦氏の出自や、
須沢城との関連について不詳です。




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【須沢城の地理地形】
須沢城は、御勅使川の喉口部に
突き出た峰の中途に位置しています。
現在、城域の大部分は
果樹園となっている模様です。
斜面を登りつめたところに
善応寺境内があります。
善応寺は現在では廃寺となっており、
観音堂のみが建っています。
この台地の南東端付近に塚状の土盛りがあり、
これが城郭遺構だと
伝えられているとのことです。
土盛りの上には石祠や宝篋印塔などがあります。
須沢城は御勅使川北岸の台地の上に
築かれていたということです。
善応寺は一番高い山側にあり、
この境内にある宝篋印塔は
城主の御霊廟と伝えられています。

甲斐・須沢城(遠景)

南アルプス市飯野新田(旧白根町)にある
了円寺の縁起書に須沢城の悲劇が記してあるそうです。

【構造形態】
山城(700m/200m)

【遺構】
土塁

【所在地】
〒400-0234 山梨県南アルプス市大嵐

【交通アクセス】
甲府駅からバスで40分程度。

【駐車場】
台地の上まで車で行くことができるそうです。
但し、冬季は避けた方が無難です。

【了円寺所在地】
南アルプス市飯野新田525

【交通アクセス】
(車)
中部横断自動車道「白根」ICより車で10分程度。

(電車)
JR身延線「東花輪」駅より車で25分程度。

(最寄バス停)
山梨交通「源」バス停より徒歩15分程度。

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