【ウィリアム・アダムス(三浦按針)】
ウィリアム・アダムス(1564年9月24日⇒
1620年5月26日〈元和6年4月24日〉)は、
サムライの称号を得た最初の外国人でした。
江戸時代初期に徳川家康に
外交顧問として仕えた
イングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。
日本名は三浦 按針(みうら あんじん)です。
【生誕】
1564年9月24日
【死没】
1620年5月26日(元和6年4月24日)
【別名】
三浦 按針(みうら あんじん)(日本名)
【幕府】
江戸幕府
【主君】
徳川家康⇒秀忠
【妻】
メアリー・ハイン、
お雪
【子】
デリヴァレンス、ジョン、ジョゼフ(按針)、
スザンナ
【特記】
菩提寺は浄土寺 (横須賀市)
【生涯】
【生い立ちと青年時代】
1564年、イングランド南東部の
ケント州ジリンガムで生まれました。
船員だった父親を亡くして故郷を後にし、
12歳でロンドンのテムズ川北岸にある
ライムハウスに移り、
船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに
弟子入りしたとのことです。
造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、
1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、
フランシス・ドレークの指揮下にあった
貨物補給船リチャード・ダフィールド号の
船長としてアルマダの海戦に参加しました。
翌1589年には
メアリー・ハインと結婚し、
娘デリヴァレンスと
息子ジョンを授かりました。
けれども、軍を離れてバーバリー会社
ロンドン会社の航海士・船長として
北方航路やアフリカへの航海で
多忙だったアダムスは、
ほとんど家に居つかなかったと
いわれています。
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【リーフデ号の航海】
航海で共に仕事をする中で
オランダ人船員たちと
交流を深めたアダムスは、
ロッテルダムから極東を目指す
航海のためにベテランの航海士を
探しているという噂を聞きつけ、
弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り
志願したとのことです。
航海は5隻からなる船団で
行われることになっていたとのことです。
ホーぺ号(「希望」の意・旗艦)
リーフデ号(「愛」の意)
ヘローフ号(「信仰」の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
トラウ号(「忠誠」の意)
ブライデ・ボートスハップ号
(「良い予兆」あるいは「陽気な使者」の意)
司令官のジャック・マフは
アダムスをホーペ号の航海士として
採用しました。こうして1598年6月24日、
船団はロッテルダム港を出航しました。
けれども航海は惨憺たる有様でした。
マゼラン海峡を抜けるまでには
ウィリアムとトマスの兄弟は
リーフデ号に配置転換されていましたが、
トマスが最初乗船していたトラウ号は
ポルトガルに、ブライデ・ボートスハップ号は
スペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は
続行を断念してロッテルダムに引き返しました。
生き残った2隻で太平洋を横断する途中、
ホーペ号も沈没してしまい、
極東に到達するという目的を果たしたのは
リーフデ号ただ1隻となったのでした。
その上、食糧補給のために寄港した先々で
赤痢や壊血病が蔓延したり、
インディオの襲撃に晒されたために
次々と船員を失っていき、トマスも
インディオに殺害されてしまいます。
こうして出航時に110人だった乗組員は、
日本漂着までには24人に減っていたのでした。
【日本漂着】
関ヶ原の戦いの約半年前となる
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、
リーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着しました。
自力では上陸できなかった乗組員は、
臼杵城主・太田一吉の出した小舟で
ようやく日本の土を踏んだのでした。
一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報しました。
寺沢広高はアダムスらを拘束し、
船内に積まれていた大砲や火縄銃、
弾薬といった武器を没収したのち、
大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎます。
この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、
オランダ人やイングランド人を
即刻処刑するように要求しています。
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【徳川家康の引見】
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、
重体で身動きの取れない
船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、
アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、
メルキオール・ファン・サントフォールトらを
大坂に護送させ、併せて船も回航させました。
5月12日(慶長5年3月30日)、
徳川家康は初めて彼らを引見します。
イエズス会士の注進で
リーフデ号を海賊船だと思い込んでいた
徳川家康でしたが、路程や航海の目的、
オランダやイングランドなど
プロテスタント国とポルトガル・スペインら
カトリック国との紛争を臆せず説明する
アダムスとヤン=ヨーステンを気に入って
誤解を解きました。
しばらく乗組員たちを投獄したものの、
執拗に処刑を要求する宣教師らを
黙殺した徳川家康は、
幾度かにわたって引見を繰り返した後に
釈放し、城地である江戸に招いたのでした。
【帰国は叶わず】
江戸でのアダムスは
帰国を願い出ましたが、
叶うことはありませんでした。
代わりに徳川家康は米や俸給を与えて慰留し、
外国使節との対面や外交交渉に際して
通訳を任せたり、助言を求めたりしました。
またこの時期に、幾何学や数学、
航海術などの知識を徳川家康以下の
側近に授けたとも言われています。
【西洋式の帆船の建造】
やがて江戸湾に係留されていた
リーフデ号が沈没すると、
船大工としての経験を買われて、
西洋式の帆船を建造することを
要請されました。
永らく造船の現場から遠ざかっていた
アダムスは、当初は固辞したものの
受け入れざるを得なくなり、
伊東に日本で初めての
造船ドックを設けて80tの帆船を建造。
これが慶長9年(1604年)に完成すると、
気をよくした徳川家康は
大型船の建造を指示します。
慶長12年(1607年)には
120tの船舶を完成させたのでした。
【改名】
この功績を賞した徳川家康は、
さらなる慰留の意味もあって
アダムスを250石取りの旗本に取り立て、
相模国逸見に采地も与えました。
また、三浦按針
(「按針」の名は、
彼の職業である水先案内人の意。
姓の「三浦」は領地のある
三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、
異国人でありながら
日本の武士として生きるという
数奇な境遇を得たのでした。
のち、この所領は
息子のジョゼフが相続し、
三浦按針の名乗りも
ジョゼフに継承されています。
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【帰国せず】
慶長18年(1613年)に
イギリス東インド会社のクローブ号が
交易を求めて日本に来航した際、
一行に付き添い、
徳川家康らとの謁見を実現させ、
貿易を許可する朱印状を
取りつけるなどの手助けをしました。
慶長19年(1614年)の
クローブ号帰還の際には、
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出ましたが、
同船司令官のジョン・セーリスと
馬が合わず、帰国を見送りました。
セーリスは何事も日本式を強要する
アダムズが気に入らず、
アダムズはセーリスを生意気で
無礼な青二才として嫌っていました。
一行が去ったあとは、それまで手伝っていた
オランダ商館より安い賃金でしたが、
母国イギリス商館の仕事を手伝いました。
【徳川家康の死後】
徳川家康に信頼された三浦按針でしたが、
元和2年(1616年)4月に
徳川家康が死去し、跡を継いだ
徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちが
海外貿易を幕府に一元化する目的で
貿易を長崎と平戸の二港のみに制限すると、
幾度も幕府に方針の転換を説きましたが
相手にされず、また徳川秀忠との目通りも叶わず、
三浦按針の立場は不遇となりました。
以降の三浦按針の役目は天文官のみとなりましたが、
幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されました。
三浦按針は憂鬱な状態のまま、
1620年5月26日(元和6年4月24日)に
平戸で死去しました(満55歳没)。
【妻について】
帰国を諦めつつあったアダムスは、
慶長7年(1602年)頃に
大伝馬町の名主で徳川家康の
御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘である
お雪(マリア)と結婚したとされてきました。
けれども馬込勘解由の娘とする説は
明治21年(1888年)の「横須賀新報」、
明治25年(1892年)の菅沼貞風「日本商業史」が
初出であり、実際の出自は不明であるとのことです。
またお雪という名前は昭和48年(1973年)の
石一郎の小説「海のサムライ」初出とし、
牧野正「青い目のサムライ三浦按針」の
英訳書を通じて誤って広まったものであり、
史料上妻の名前は残っていないとのことです。
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日本人妻との間には、
息子ジョゼフと娘スザンナが
生まれているとのことです。
【記念する場所・行事】
<領地と菩提寺>
神奈川県横須賀市の逸見には
三浦按針の領地がありました。
同地(横須賀市西逸見)にある
濤江山浄土寺が
三浦按針の菩提寺となっており、
三浦按針が東南アジアから
もたらしたという唄多羅葉や、
念持仏が納められているとのことです。
<塚山公園>
横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、
三浦按針夫妻の慰霊のために
作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があります。
「安針塚(按針塚)」
「三浦按針墓」と呼ばれています。
江戸時代後期には浄土寺や
日本橋按針町の人々によって、
三浦按針の法要が行われたということです。
<墓探しと修復>
日本の開国後、
ウィリアム・アダムスの墓探しが
行われました。
明治7年(1874年)、
横浜に住む実業家
ジェームズ・ウォルタースによって、
逸見の浄土寺から古い2基の
宝筺印塔が発見されました。
ウォルタースは「按針塚」周辺の
荒廃を憂いて修復を行い、
横浜居留のイギリス人や
地元の人々などからも支援が行われました。
明治35年(1902年)に結ばれた
日英同盟を契機に
「安針塚(按針塚)」周辺の
大規模な整備が行われ、
塚山公園が作られましたが、
これに際して発掘調査が行われ、
埋葬地ではないことが確認されました。
<国の史跡>
大正12年(1923年)3月7日、
「三浦按針墓」として
国の史跡に指定されました。
<安針塚駅>
また1940年には、
京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の駅が、
「安針塚駅」に改名されています。
<記念行事>
塚山公園では第二次世界大戦以前から
「按針祭」が挙行されていました。
日英間で交戦状態になった
第二次世界大戦期の中断を挟み、
「三浦按針墓前祭」「三浦按針祭」
などの名称で記念行事が行われました。
1997年以後は
「三浦按針祭観桜会」の名称で、
毎年4月8日に挙行されています。
<姉妹都市提携>
昭和57年(1982年)に
横須賀市とジリンガム市は
姉妹都市提携をおこなっています。
ジリンガム市側の自治体合併によって
メドウェイ市が発足したため、
1999年以降はメドウェイ市と
姉妹都市関係にあります。
<400回忌>
2019年10月25日、
浄土寺本堂でアダムスの
400回忌法要が営まれました。
徳川宗家18代当主の徳川恒孝も
参列しています。
<指定文化財>
2021年、
三浦按針の念持仏観音像が、
横須賀市の指定文化財に
指定されました。
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<伊東・按針メモリアル公園>
三浦按針が洋式船を建造した
静岡県伊東市では、
「按針メモリアル公園」が作られ、銅像があります。
<伊東・花火大会>
例年ですと
毎年夏には「按針祭」が開催され、
日程の最後には「按針祭海の花火大会」が
挙行されるとのことです。
<伊東・姉妹都市提携>
昭和57年(1982年)に
伊東市とジリンガム市は
姉妹都市提携をしており、
1999年降は
メドウェイ市と姉妹都市関係にあります。
<姉妹都市生徒交換プログラム>
1995年から伊東市は、
姉妹都市生徒交換プログラムを
行っており、毎年2名が
親善大使として1年間活動しながら、
派遣学生として、8月の間の2週間、
横須賀の学生とともに
メドウェイ市に派遣されています。
また、メドウェイ市からの
派遣学生も2名受け入れており、
按針祭の式典の行事などに
参加するとのことです。
(2023年は未確認)
メドウェイ市には、
Ito wayとYokosuka wayという道が
作られているとのことです。
【その他】
<埋葬地?>
その後、キリスト教弾圧の中で
商館とともに外国人墓地の破壊が
行われたため、
埋葬地の正確な場所は
はっきりしないとのことです。
1931年、
平戸の崎方にほど近い三浦家で
「安針墓」として伝えられてきた墓から、
遺骨と遺品の一部が発掘されています。
三浦家は通詞の末裔であり、
ひそかに按針の遺骨の一部を
もらいうけて埋葬したという
口伝があったとのことです。
<平戸・「三浦按針の墓」>
昭和29年(1954年)、
イギリス商館跡近くの
崎方公園(平戸市大久保町)に
「三浦按針の墓」が建立されました。
昭和39年(1964年)、
アダムスの生誕400年に際し、
イングランドの妻の墓地より
小石を取り寄せ、夫婦塚としました。
毎年5月下旬には墓前で
「按針忌」が催されているとのことです。
<按針町>
アダムスの江戸屋敷があった地区は
按針町と呼ばれていました。
現在の東京都中央区日本橋室町です。
同地(日本橋室町1-10-8)には、
「三浦按針屋敷跡の碑」が立ち、
これは東京都指定文化財となっています。
<大分県・黒島>
リーフデ号が漂着した
大分県臼杵市佐志生海岸の黒島には
「三浦按針上陸記念碑」が立っています。
「三浦按針記念公園」や
「リーフデ号到着記念公園」が
整備されています。
<エラスムス像>
リーフデ号の船尾像であったエラスムス像は、
旗本・牧野成里の菩提寺である
栃木県佐野市の龍江院に
「貨狄尊者」として伝えられました。
エラスムス像は国の重要文化財に指定され、
東京国立博物館に収蔵されています。
<メドウェイ市>
出生地であるメドウェイでは、
毎年9月中旬に
「Will Adams Festival」が
開催されるとのことです。
<「日西墨比貿易港之碑」>
アダムスが浦賀外交の顧問として
迎えられたことの周知のため、
浦賀住民の熱意によって賛助金が集められ、
2019年4月25日、
横須賀市東浦賀の東叶神社境内に
「日西墨比貿易港之碑」が建碑され、
除幕式が行われました。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
村雨 辰剛(むらさめ たつまさ)さんが
演じられます。
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