【満願寺城】
満願寺城は尼子経久に臣従した湯原信綱が築いた城です。
永禄5年(1562年)に
毛利元就が出雲に進出すると
城主であった湯原春綱は降伏し、
以降は毛利水軍の一翼として活躍しました。
その後、永禄12年(1569年)に
尼子再興軍が蜂起すると、
満願寺城を巡って尼子氏と毛利氏が争い、
尼子氏残党の奈佐日本之介(但馬の海賊王)が
占拠しました。
けれども天正元年(1573年)に
吉川元春が攻略し再び毛利氏に属しました。
城名にもなっている満願寺はいまも
東麓に残っており、
境内には毛利元就が植えたと伝わる椿があります。
遺構はわずかに横堀や竪堀が
宍道湖に面した丘陵部分に確認できるとのことです。
【曲輪構成】
連郭式
【形態構】
平山城
【標高(比高)】
28m(28m)
【築城主】
湯原信綱と伝わる
【築城年】
着工:大永元年(1521年)か
【主な城主】
湯原信綱、奈佐日本之介、毛利氏
【遺構】
曲輪、空堀
【所在地】
〒690-0122 島根県松江市西浜佐陀町879
【交通アクセス】
【電車】
JR山陰本線の「松江」駅から、
松江市営バスに乗り
「満願寺前」バス停にて下車して、
南下する事、徒歩5分程度。
【駐車場】
満願寺の参拝者用駐車場を拝借可能。
【毛利元就の椿】
境内には毛利元就が
1562年に植えたと伝わる、椿があります。
【湯原春綱】
湯原 春綱(ゆはら はるつな)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
尼子氏⇒毛利氏の家臣でした。
出雲国佐陀江の満願寺城主。
毛利水軍の将でもありました。
【生誕】
永正11年(1514年)
【死没】
天正19年8月26日(1591年10月13日)
【別名】
又七郎、次郎左衛門(通称)、入道楽心(法名)
【官位】
右京進、豊前守
【主君】
尼子晴久、義久、
毛利隆元、輝元
【氏族】
源姓湯原親王流湯原氏
【父】湯原信綱
【母】尼子国久娘
【兄弟】
宗綱、春綱、定綱、氏綱
【妻】富永元安娘
【子】
元綱、富永安綱、広綱、児玉元良継室
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【生涯】
湯原氏は出雲島根郡・秋鹿郡内に本領を持つ国人。
永正11年(1514年)、
湯原信綱の次男として誕生しました。
天文9年(1540年)9月26日の池ノ内の戦いで、
兄の湯原宗綱が23歳で討死したため、
翌年の天文10年(1541年)1月に
湯原氏の家督を継ぎました。
尼子氏が毛利氏の圧迫を受けて
劣勢に追い込まれると、
永禄5年(1562年)1月に
天野隆重や大谷元親、桂元忠、
児玉元実の勧誘により毛利氏に降り、
同年9月27日に毛利元就・隆元父子と
起請文を交わしました。
これ以後は毛利家臣として
吉川元春に従い、
月山富田城攻めに加わったのでした。
永禄6年(1563年)3月6日、
出雲意宇郡大草村における合戦で
尼子方の黒田藤右衛門尉を自ら討ち取り
この時の合戦で湯原春綱の軍は
尼子軍の首級をいくつも挙げております。
木村五郎兵衛が野嶋助五郎を、
黒崎弥市郎が黒田助八郎を、
岩内弥十郎が黒田助八郎の被官である
黒田七左衛門を、
湯原慶綱が山下左内を
それぞれ討ち取ったとのことです。
また、木村忠三郎が敵兵の首を2つ挙げ、
石橋左京、谷孫兵衛、谷孫七、
山本九郎左衛門、吉岡清空入道が
それぞれ敵兵の首を1つずつ挙げていることです。
嫡男の湯原元綱と共に毛利元就から
感状を与えられたとくことです。
【毛利水軍として転戦】
出雲や伯耆国を始めとして
中国地方各地を転戦しました。
この間、吉川元春からの
偏諱を受けたと推測されました。
また、永禄10年(1567年)から
永禄11年(1568年)にかけては
瀬戸内海を越えて毛利氏の伊予出兵にも従軍しました。
【尼子再興軍が来る】
永禄12年(1569年)に
尼子勝久を首領に戴く
山中幸盛(山中鹿介)率いる
尼子再興軍が隠岐国より出雲国へと侵入すると、
元亀年間の初めに末次城に在番し、
元亀2年(1571年)からは
加賀城の在番も務めましたが、
湯原春綱の叔父である米原広綱らが
尼子再興軍に呼応して寝返ったことで
湯原春綱自身も離反を疑われたのでした。
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【尼子再興軍の撃破に貢献】
そのため湯原春綱は、
同年7月23日に毛利氏への忠誠を誓う
起請文を吉川元春に提出し、
以後も毛利氏に従って
尼子再興軍の撃破に貢献しました。
また、湯原春綱は水軍の武将でもあったので、
隠岐島に渡海して尼子方の隠岐氏を降伏させました。
【毛利VS織田の時代へ】
毛利氏と織田氏との戦いが始まると、
天正7年(1579年)12月に
美作国医王山城(祝山城)の在番を命じられます。
天正8年(1580年)の医王山城攻防戦では、
福田盛雅、塩谷元真、小川元政らと共に籠城し、
織田方についた宇喜多氏の攻撃から
城を死守したのでした。
この功により、同年1月には
美作国の300貫の所領、
3月24日に豊前守の受領名、
4月には伯耆国で200石の所領を
毛利輝元から与えられました。
【羽柴秀吉からの調略には乗らず】
また、同年6月には
織田信長の命を受けた羽柴秀吉から
出雲一国を与える条件で
寝返ることを求められましたが、
湯原春綱はこの誘いを
毛利輝元に報告して忠節を示し、
7月には毛利輝元から
因幡国と美作国で1000貫の
知行宛行を約束されました。
けれども、医王山城の出城を守備していた
米原景儀が毛利氏を離反したことで
湯原春綱の離反の風説が流れ、
9月に再び毛利氏への
忠誠を誓う起請文を輝元に提出したのでした。
【最期】
天正13年(1585年)の四国攻めに従軍。
天正19年(1591年)8月26日に死去しました。
享年は78歳でした。
家督は嫡男の湯原元綱が継ぎました。
【子孫】
関ヶ原の合戦で毛利氏が安芸より
防長に転封となったとき、
湯原氏はこれに従い、
周防国熊毛郡小周防に移りました。
そして子孫は、萩藩大組の一として続いたのでした。
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