【西郷頼母】
西郷 頼母(さいごう たのも、
文政13年閏3月24日(1830年5月16日) –
明治36年(1903年)4月28日)は、
江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老です。
諱は近悳(ちかのり)。
明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名しています。
号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号しました。
【生い立ち】
会津藩家老である
西郷近思の子として生まれました。
会津藩の家老は世襲制で
身分意識が強く、
会津の名門九家の門閥の者しか
家老に就くことが許されなかったのでした。
また、「ならぬものはならぬのです」
という教えによって、
身分が低くても優秀であれば
出世できるなどということも
許されなかったのでした。
【会津家老時代】
万延元年(1860年)、
家督と家老職(家禄1700石)を継いで
藩主である松平容保に仕えました。
<西郷頼母邸跡>
鶴ヶ城正面の追手町にあります。
北出丸大通りに面したところに説明板などがあります。
<所在地>
〒965-0873 福島県会津若松市追手町5−3
【家老職の解任と蟄居】
文久2年(1862年)、
幕府から京都守護職就任を要請された
松平容保に対し、
政局に巻き込まれる懸念から
辞退を進言したために、
松平容保の怒りを買います。
その後も、藩の請け負った
京都守護の責務に対して
否定的な姿勢を覆さず、
禁門の変が起きる直前に
上京して藩士たちに帰国を説いていました。
ところが、賛同されずに帰国を強いられ、
家老職まで解任された上に、蟄居させられました。
この解任理由は、
無断上京を咎められたから
とされていますが定かではありません。
その後、他の家老たちの間で
西郷頼母の罪を赦しては
どうかと話し合われてもいたそうです。
【家老食復帰と白河口総督】
明治元年(1868年)、
戊辰戦争の勃発によって松平容保から
家老職復帰を許された西郷頼母は、
江戸藩邸の後始末の任を
終えたのち会津へ帰還。
このとき、西郷頼母を含む主な家老、
若年寄たちは、松平容保の意に従い
新政府への恭順に備えていましたが、
新政府側からの家老らに対する
切腹要求に態度を一変。
西郷頼母は白河口総督として
白河城を攻略し拠点として
新政府軍を迎撃しましたが、
伊地知正治率いる
薩摩兵主幹の新政府軍による攻
撃を受けて白河城を失陥。
その後二ヶ月以上にわたり
白河口を死守しましたが、
7月2日に棚倉城陥落の責任により
総督を解任されたのでした。
会津防衛に方針転換してからは
進入路に当たる峠(背炙山)の
1つを守っていましたが、
他方面の母成峠を
板垣退助率いる土佐迅衝隊に
突破されたために、
新政府軍に城下を取り囲まれたのでした。
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そこで若松城に帰参した西郷頼母は、
藩主である松平容保の切腹による
会津藩の降伏を迫ったため、
松平容保以下、会津藩士が大激怒。
身の危険を感じた西郷頼母は、
長子・吉十郎のみを伴い
伝令を口実として城から逃げ出しました。
この一件に関し、西郷頼母自身は
「軽き使者の任を仰せつかり」、
と述べており(栖雲記)、
越後口の萱野長修の軍への連絡に
かこつけた逃亡とされています。
家老である梶原平馬が不審に思い、
追手を差し向けましたが、
その任に当たった者たちは
敢えて西郷頼母親子の後を深追いせず、
結果として追放措置となったのでした。
【戊辰戦争以降】
会津から逃げ延びて以降、
榎本武揚や土方歳三と合流して
箱館戦線で江差まで戦いましたが、
旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、
館林藩預け置きとなりました。
明治3年(1870年)、
西郷家は藩主である
保科家(会津松平家)の分家でもあったため、
本姓の保科に改姓し、保科頼母となりました。
明治5年(1872年)に赦免され、
伊豆で依田佐二平の開設した
謹申学舎塾の塾長となりました。
【西南戦争と西郷隆盛】
明治8年(1875年)には
都都古別神社
(現・福島県東白川郡棚倉町)
の宮司となりましたが、
西南戦争が勃発すると、
西郷隆盛と交遊があったため
謀反を疑われ、宮司を解任されました。
実際、西郷隆盛と西郷(保科)頼母の
手紙のやりとりはありましたが、
慶応年間からの知り合いと
伝承では成り立っています。
けれども偶然ではありますが、
西郷(保科)頼母と
西郷隆盛は同族の関係にあったのでした。
明治12年(1879年)、
長男の吉十郎が病没したため、
甥(志田貞二郎の三男)
の志田四郎
(後の柔道家・西郷四郎)を養子とし、
彼に柔術を教えました。
明治13年(1880年)、
旧会津藩主であった松平容保が
日光東照宮の宮司となりますと、
保科(西郷)頼母は禰宜となりました。
明治20年(1887年)、
後藤象二郎らの提唱する
大同団結運動に共鳴し、
会津と東京を拠点として政治活動に加わり、
日光東照宮の禰宜を辞めました。
代議士となる準備を進めていましたが、
大同団結運動が瓦解したため
政治運動から身を引き、
郷里の若松(現・会津若松市)に戻ったのでした。
明治22年(1889年)から
明治32年(1899年)まで、
福島県伊達郡の霊山神社で
神職を務め、辞職後は再び若松に戻りました。
明治36年(1903年)に
会津若松の十軒長屋で74歳で亡くなりました。
墓所は妻である千重子の墓とともに、
会津の善龍寺にあります。
【系譜】
西郷家は、室町時代に
仁木氏の守護代を務めた
三河国の名家でした。
やがて勢力を拡大させる
松平家に臣従しました。
その後、徳川政権下で
御三家や有力譜代の家臣として
存続し続けました。
そして会津藩における西郷家は
その傍流の1つとして目され、
初代の西郷近房以来200年余、
会津藩松平家の家老を
代々務める家柄であり、
西郷頼母で9代目となっていました。
家禄は1700石です。
家紋は鷹の羽、
また保科家の並び九曜紋を許されていました。
【家族の悲劇】
母、妹2人、妻、5人の娘は
慶応4年8月23日(1868年10月8日)、
西郷頼母の登城後に親戚12人と共に
自邸で自害しました。
【二分する西郷頼母の評価】
この家族の受難は戊辰戦争の
悲話として紹介され、
そのため西郷頼母は会津藩に
最後まで忠誠を尽くした忠臣
であるという評価と、
家族は潔く自害したのに
自身は逃亡し生き長らえたことから、
卑怯者、臆病者とされる評価で二分されています。
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【長男の足跡】
長男・吉十郎有鄰は当時11歳で父である
西郷頼母に連れられ、
籠城中の若松城から脱走し、
仙台から函館へ向かい、
函館で父が五稜郭に入城の時に
坂本龍馬の従兄弟で
函館のギリシャ正教神父・沢辺琢磨に託されました。
なお沢辺琢磨の実弟である
桑津一兵衛重時は、
新政府軍・土佐迅衝隊の第十四番隊長として、
会津戦争に従軍しています。
病のため東大医学部病院で死去。
ただし、戦後は西郷隆盛の援助で
アメリカ留学したとの説、
西南戦争に鹿児島で戦傷説もあります。
墓は東京都港区麻布長谷寺です。
【姿三四郎のモデル・西郷四郎】
養子となった西郷四郎は
会津藩士・志田貞二郎の三男で
西郷頼母の甥にあたります。
明治14年(1881年)、養子としました。
西郷四郎は成人した後、
上京して講道館に入門し
柔道家として大成します。
小説や映画で名高い
姿三四郎は彼がモデルとされています。
【人物・逸話】
身分意識が強く、
西洋銃導入を進言した山本覚馬を
一年間禁足処分に課し、
秋月悌次郎が秀才であったにも関わらず
左遷されたのは下級武士であったからでした。
西日本側の諸藩の事情に
通じていた秋月悌次郎を左遷し、
薩摩・長州とパイプを持つ
神保修理を自害に
追いやったことなどが
会津藩敗北の遠因となったとされています。
ひげだるまと渾名され、
体格は非常に小柄でありながら、
合気術の達人でもあったそうです。
【西郷頼母の名言】
保科近悳(西郷頼母)の晩年
「保科藩老戊申戦略談一片聞書」(渋谷源蔵 )に、
白河口攻防の作戦は保科の意見、
降伏開城も反対されたとあります。
会津敗戦の予想は的中し、
臆病者と揶揄された内容とは逆であるとのことです。
従って汚名は返上されるべきとのことです。
西郷頼母が語った
「中道を行く者の難しさは、
右から見れば左に見え、
左からみれば右に見られる 」は
後世、名言といわれるようになりました。
会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。
会津武家屋敷~会津藩家老の西郷頼母邸・藩米精米所など、江戸期の会津の歴史が学べます。
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