江戸時代

本居宣長と旧宅~国学の四大人であり、文献学者で医師で源氏物語をこよなく愛した人物です。

本居宣長旧宅



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【本居宣長旧宅】

本居宣長旧宅(もとおりのりながきゅうたく)は、
三重県松阪市殿町にある史跡です。

江戸時代の国学者である
本居宣長が12歳から72歳で
亡くなるまでこの家で暮らし、
2階の書斎を屋(すずのや)
と名づけました。
明治42年(1909年)、
保存のために松坂城跡の
現在地に移築され、
現在は本居宣長記念館によって
管理されています。
昭和28年(1953年)、
移築前の跡地とともに
国の特別史跡に指定されました。
本居宣長旧宅 説明

【歴史】
【先祖は北畠家の家臣】
本居宣長旧宅の建物は、
元禄4年(1691年)に
小津三四右衛門定治(宣長の祖父)が
隠居所として建てたものです。
最初の建物は松坂職人町に建てられ、
後に松坂魚町に移築されたとのことです。
本居宣長の先祖は
代々伊勢国の北畠家の家臣であり、
本居家初代の本居武秀は
蒲生氏郷に仕えた武将であったとのことです。
その子である七右衛門の代から
氏を小津と改めて松坂に住み、
小津家は木綿問屋を営んで
江戸店持ちの豪商として
栄えていたとのことです。

【父の死後、隠居所に移り住む】
本居宣長が11歳のとき、
父の三四右衛門定利が病没しました。
商いは義兄の宗五郎定治が
継ぎましたが、
小津家の家運は次第に
傾き始めたとのことです。
翌年、母かつは本居宣長と
その弟1人と妹2人を連れて、
5人家族で魚町の隠居所に
移り住んだとのことです。
本居宣長はこの後、
若い頃京都で医学を学んだ
7年間を除いて、
72歳で亡くなるまでの間
この家で暮らしたとのことです。




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【鈴屋】
義兄の死後、本居宣長は
小津家を継ぎましたが、
商いはやめました。
氏を祖先の本居に戻し、
この家で町医者を営むかたわら、
「古事記伝」の執筆をはじめとする
日本古典の研究や後学の指導に
取り組んだとのことです。
本居宣長が53歳のとき、
2階の物置を改造して
新しい書斎を作りました。
鈴を愛好した本居宣長は
書斎の床の間の柱に
掛鈴を吊り下げ、
執筆活動の息抜きに
それを鳴らして
音色を楽しんでいたということです。
本居宣長はこの書斎を
「鈴屋」(すずのや)と名づけました。
本居宣長旧宅 地図

【保存運動と史跡指定】
この家には本居宣長の子孫が
明治時代まで居住していました。
明治38年(1905年)に本居宣長に
従三位が追贈されると
保存の気運が高まり、
明治42年(1909年)に
鈴屋遺蹟保存会の手によって
松坂城二の丸跡地に移築され、
本居宣長当時の姿に復元されました。
昭和28年(1953年)、
本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地は
国の特別史跡に指定されました。

【本居宣長記念館】
現在、本居宣長旧宅は
財団法人鈴屋遺蹟保存会が
運営管理する本居宣長記念館の
敷地内にあります。
鈴屋遺蹟保存会は、
本居宣長旧宅および旧宅跡、
その他関係史跡、遺品等を保存し、
業績を調査研究するとともに
顕彰に努めるために
設立された団体であるとのことです。
本居宣長記念館は本居宣長の実子である
本居春庭の子孫の家に伝わった資料や、
本居宣長の養子である本居大平の
子孫の家に伝わった資料などを所蔵し、
うち467種1949点が
国の重要文化財に、
20種31点が三重県の有形文化財に
指定されています。
本居宣長旧宅では、
本居宣長が医療活動を行った
「店の間」や講釈や歌会に使用した
「奥の間」など一部が公開されています。
「鈴屋」は保存のため
立ち入ることはできませんが、
石垣の上から内部を
窺い見ることができます。
本居宣長旧宅 内部

【電話番号】
0598-21-0312(本居宣長記念館)

【営業時間】
午前9時~午後4時30分

【休業日】
月曜日
(祝日のときは翌日)
年末年始休

【料金】
※本居宣長記念館・旧宅(共通)
大人:400円、
大学生等:300円、
小人(小学4年から高校生):200円
※ 団体割引有り(団体は30名以上で100円引き)
※ 障害者手帳をお持ちの方は無料です。
 受付で障害者手帳をご提示ください。
 介護者の方は2名まで入館無料です。
 ミライロID ご利用いただけます。
※ 松阪もめんの着物を着た方は、入館料が無料になります。
※2023年3月現在
本居宣長記念館・鈴屋案内

【交通アクセス】
JR・近鉄「松阪駅」から
「小野・藤の木台」方面行きバス5分
「市役所前」で下車し、徒歩約5分程度。

(車)
伊勢自動車道「松阪IC」から車で約15分




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【トイレ】

【駐車場】

【所在地】
〒515-0073 三重県松阪市殿町1536−6

滞在所要時間:20分程度
(本居宣長記念館・旧宅)

【本居宣長】

本居 宣長(もとおり のりなが、
享保15年5月7日(1730年6月21日)⇒
享和元年9月29日(1801年11月5日))は、
江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。
名は栄貞。本姓は平氏。
通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。
号は芝蘭、瞬庵、春庵。
自宅の鈴屋(すずのや)て門人を集め
講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)
と呼ばれていたとのことです。
また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに
国学の四大人(しうし)」
の一人とされています。
伊勢松坂の豪商・小津家の出身です。

【概要】
【「古事記伝」】
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の
古道説を継承し、国学の発展に
多大な貢献をしたことで
知られています。
本居宣長は、真淵の励ましを受けて
「古事記」の研究に取り組み、
約35年を費やして
当時の「古事記」研究の集大成である
注釈書「古事記伝」を著しました。
「古事記伝」の成果は、
当時の人々に衝撃的に受け入れられ、
一般には正史である「日本書紀」を
講読する際の副読本としての
位置づけであった「古事記」が、
独自の価値を持った史書としての評価
を獲得していく契機となったとのことです。

【「もののあはれ」】
本居宣長は、「源氏物語」の中にみられる
「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ
文学の本質であると提唱し、
大昔から脈々と伝わる
自然情緒や精神を第一義とし、
外来的な儒教の教え(「漢意」)を
自然に背く考えであると非難し、
中華文明を参考にして
取り入れる荻生徂徠を
批判したとされています。

【世界の仕組を理屈で解釈するは神に対して不敬】
また、そのような儒教仏教流の
「漢意」を用いて神典を解釈する
従来の仏家神道や儒家神道を
強く批判したとのことです。
「日本は古来より儒仏のような
教えという教えがなくても、
天照大御神の御孫とともに
下から上まで乱れることなく
治ってきた」として、
「日本には言挙げをしない
真の道があった」と強調したとのことです。
逆に儒教や仏教は
「国が乱れて治り難いのを
強ちに統治するために
支配者によって作為された道である」
と批判し、天命論についても
「易姓革命によって前の君主を倒して
国を奪い、新しく君主になった者が
自己を正当化するための作為である」
と批判したとのことです。
さらに、朱子学の理気二元論についても、
「儒学者達が推測で作り上げた空論である」
と批判し、「世界の事象は全て
日本神話の神々によって
司られているものだ」と主張した上で、
「世界の仕組みを理屈で解釈することは
さかしらの「からごころ」であり
神々に対する不敬である」
としたとのことです。




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【本居宣長の「古道」】
本居宣長は上述の通り現実を
全て神の御仕業と捉えたため、
「時々の社会体制も全て神が
司っているので、人は時々の社会体制に従うべきだ」
とも主張していたとか。
「漢意を重んじる誤りのある
現実社会もまた、
神により司られているため
重んじるべきだ」とし、
今の制度を上古のようにするために
変革しようとすることは
「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、
自らが理想視した「古道」を
規範化して現実の政治を
動かそうとすることは
徹底的に否定したとのことです。
そして、「道は上が行い下に
敷き施すものであるため、
上古の行いにかなうからといって
世間と異なることをしたり、
時々の掟に反することをすることは
間違いであり、下たるものは
上の掟に従って生活することこそが
古道である」と主張したとのことです。

【紀州徳川家への勧め】
また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた
「玉くしげ別本」の中で
「定りは宜しくても、其法を守るとして、
却て軽々しく人をころす事あり、
よくよく慎むべし。
たとひ少々法にはづるる事ありとも、
ともかく情実をよく勘へて
軽むる方は難なかるべし」と、
その背景事情を勘案して
厳しく死刑を適用しないように
勧めているとのことです。

【言語学の分野】
言語学の分野においては、
日本語音韻の整理(「字音仮名遣」)、
係り結びの法則の発見(「てにをは紐鏡」)、
上代特殊仮名遣の発見(「古事記伝」)、
日本語動詞活用の整理(「御国詞活用抄」)、
濁音が二次発生であることの発見(「字音仮名遣」)、
地名の漢字の読みの研究(「地名字音転用例」)、
漢字の漢音・唐音・呉音と
音読みの対応関係の整理(「漢字三音考」』)、
字余りの法則の発見(「字音仮名遣」)、
同音の字音の仮名遣いの整理(「字音仮名遣」)
などの功績があります。

【代表作】
本居宣長の代表作には、
前述の「古事記伝」のほか、
源氏物語」の注解「源氏物語玉の小櫛」、
そして「玉勝間」、
「馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)」
などがあります。
本居宣長旧宅「鈴屋」

【門下生】
門下生も数多く
「授業門人姓名録」によりますと、
本居宣長自筆本に45名、
他筆本には489名が
記載されているとのことです。
主な門人として田中道麿、服部中庸・
石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・
藤井高尚・高林方朗(みちあきら)・
小国重年・竹村尚規・横井千秋・
代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・
神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・
白子昌平・植松有信・肥後の国、
山鹿の天目一神社神官・
帆足長秋・帆足京(みさと)父子・
飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・
本居大平(宣長の養子)などが挙げられます。

【生い立ち】

本居宣長は享保15年(1730年)6月
伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の
木綿仲買商である
小津家の次男として生まれたとのことです。
幼名は富之助とのことです。
なお本居家の先祖は
北畠氏の家臣であったとのことです。




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【幼少期から青年期】
元文2年(1737年)、
8歳で寺子屋に学んだとのことです。
元文5年(1740年)、
11歳で父を亡しました。
延享2年(1745年)、
16歳で江戸大伝馬町にある
叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰りました。
商売見習いのためであったと
考えられています。
当時の江戸までの道中の地図資料
のいい加減なところから、
「城下船津名所遺跡其方角を改め
在所を分明にし道中の
行程駅をみさいに是を記」すとして
「山川海島悉く図する」資料集の
「大日本天下四海画図」を起筆し、
宝暦元年(1752年)12月上旬に
書写作業完了させています。
また、この時期の見聞を元に、
自分用の資料として
「都考抜書(とこうばっしょ)」を
延享3年より起筆、
宝暦元年(1751年)頃まで
書き継いだとのことです。

【養子と離縁と和歌】
寛延元年(1748年)、19歳のとき、
伊勢山田の紙商兼御師の
今井田家の養子となりますが、
3年後の寛延3年(1750年)、
離縁して松坂に帰ってきます。
このころから和歌を詠み始めたとのことです。

【京都遊学、国学との出会い】
宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり、
小津家を継ぎましたが、商売に関心はなく、
江戸の店を整理してしまいます。
母と相談の上、医師を志し、
京都へ遊学します。
医学を堀元厚・武川幸順に、
儒学を堀景山に師事し、
寄宿して漢学や国学などを学びました。
景山は広島藩儒医で朱子学を奉じましたが、
反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、
また契沖の支援者でもありました。
同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻します。

この頃から本居宣長は、
日本固有の古典学を熱心に
研究するようになり、
景山の影響もあって
荻生徂徠や契沖に影響を受け、
国学の道に入ることを志します。
また、京都での生活に感化され、
王朝文化への憧れを強めていくのでした。

【帰郷、松阪の一夜】
宝暦7年(1758年)、
京都から松坂に帰った本居宣長は
医師を開業します。
そのかたわら自宅で「源氏物語」の講義や
「日本書紀」の研究に励んだとのことです。
27歳の時、「先代旧事本紀」と
「古事記」を書店で購入し、
賀茂真淵の「冠辞考」(かんじこう)に
触発されて国学の研究に本腰を
入れることになっていきます。
松坂城 三ノ丸 御城番屋敷

【本居春庭の誕生】
宝暦13年(1763年)2月3日、
再婚した、たみ(勝)との間に
本居春庭が生まれました。
たみ(勝)との間には、
二男三女が授かったとのことです。




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【2番目の妻・たみ(勝)】
ちなみにたみ(勝)さんは、
本居宣長の学友の妹でした。
本居宣長とは10歳離れていたとのこと。
本居宣長は一目ぼれしたそうですが、
この時たみには縁談があり嫁ぎました。
が、その3年後に夫と死別して
実家に戻りました。
実家は医者でもありました。
そして医者の卵である
本居宣長と再婚しました。
本居宣長も再婚でした。
最初の妻は近所の豪商の娘でしたが、
数か月で離縁したそうです。
離縁の理由として、最初の縁談が
決まった時にたみさんが実家に
帰ってきたことを知ります。
本居宣長にとってたみさんは
一目ぼれをした運命の女性。
自分の気持ちを知りながら、
好きでもないほかの女性と一緒に
なることはよくないのではと迷い、
一旦は夫婦になったものの、
やはりたみさんへの気持ちは
変わらなく、離縁してしまったなどと
言われておりますが・・・。
果たして・・?

最初の妻との離縁については
本居宣長の母親である勝が
難色を示したとか。
そして本居宣長はいわゆる現代でいう
「マザコン」だったといわれています。
商売に興味も才能もないと見抜き、
医者になるように勧めたのは
母である勝であったそうです。
そしてわずか数か月で最初と妻と
離縁したので、たみの実家は
それが気になるところでもありました。
で、妙案として、たみの名を
本居宣長の母親と同じ名前に
すること、だったそうです。
こうしてたみは勝となりました。

本居宣長自身はたみ(勝)さんのことが
初めて出会ったその時から
「ずっとあなたが好きだった」
状態であったとも言われています。
たみさんとの結婚生活は良好で、
医者と学者の二束わらじ、
のちに国学の四大人一人となる夫を
支え続けたとのことです。
たみ(勝)さんは81歳まで
生きたとのことです。
本居宣長 旧宅

【賀茂真淵に入門】
5月25日、伊勢神宮参宮のために
松阪を来訪した賀茂真淵に初見し、
古事記の注釈について指導を願い、
入門を希望しました。
その年の終わり頃に
入門を許可され、
翌年の正月に本居宣長が
入門誓詞を出しています。
賀茂真淵は、万葉仮名に慣れるため、
「万葉集」の注釈から始めるよう
指導したとのことです。
以後、本居宣長は「古事記」の
本格的な研究に進みます。
この賀茂真淵との出会いは、
賀茂宣長の随筆「玉勝間(たまがつま)」に
収められている
「おのが物まなびの有りしより」と
「あがたゐのうしの御さとし言」
という文章に記されているとのことです。
その後、本居宣長は賀茂真淵と
文通による指導を受け始めたとのことです。




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【門人】
本居宣長は、一時は紀伊藩に仕えましたが、
生涯の大半を市井の学者として
過ごしました。
門人も数多く、特に天明年間
(1781年⇒1789年)の
末頃から増加していました。
天明8年(1788年)末までの
門人の合計は164人ですが、
その後増加し、
本居宣長が死去したときには
487人に達していたとのことです。
本居宣長旧宅 正門

【晩年】
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・
大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、
旅先で多くの人と交流し、
各地にいる門人を激励するなどしました。
寛政5年(1793年)、
64歳の時から散文集「玉勝間」を書き始め、
その中で自らの学問・思想・信念について
述べているほか、
方言や地理的事項について言及し、
地名の考証を行い、
地誌を記述していたとのことです。
寛政10年(1797年)、
69歳にして「古事記伝」を完成させました。
起稿してから34年後のことでした。
寛政12年(1800年)、
「地名字音転用例」を刊行しました。
享和元年(1801年)に他界しました。
享年は72歳(満年齢は71歳)でした。
山室町高峰の妙楽寺に葬られたとのことです。

【没後】
旧山室村の本居家の墓から
本居宣長の霊魂を殿町の森に運び
神仏の聖地が移転しました。
大正4年(1915年)に
学問の神様として本居神社が遷座しました。
平成7年(1995年)に社号を
本居宣長ノ宮と改称しました。

その墓は昭和34年(1959年)に
松阪市内を見渡す妙楽寺の
小高い山へ移されました。
生前の本居宣長が好んだ場所とされています。
さらに平成11年(1999年)には
遺言の設計に沿った
「本居宣長奥津墓(城)」が建造されました。

【読書人・数寄人】
<源氏物語>
平安朝の王朝文化に
深い憧れを持ち、中でも「源氏物語」を好みました。
平等院鳳凰堂の風景

<鈴の蒐集家>
鈴の蒐集家でもあり、
駅鈴の複製品など
珍しいものを多く所有していました。
駅鈴については、
寛政7年(1795年)8月13日に
浜田藩主・松平康定が本居宣長の
源氏物語講釈を聴講するのに先立って、
自筆色紙と共に贈ったものであるそうです。
また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけています。

<架空都市を描く>
19の頃には架空都市
「端原氏城下絵図」を描きました。

<書物へのこだわり>
読書家であると同時に、
書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、
「借りた本を傷めるな」
「借りたらすぐ読んで早く返せ、
けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」
などの考えを記しているとのことです。




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<赤穂義士への悪口>
「法話聞書 赤穂義士伝」では、
「大石良雄(大石内蔵助)は
いろいろのたわけを尽くし、
天下の人に後ろ指を
さされ笑われた」
「大石良金はめかけの子」と
義士を列記して
毀損が綴られているとのことです。
佐々木信綱により
「赤穂記」の名で紹介され、
本居宣長の手になる原本が残っています]。
が、赤穂義士が精神的支柱とした
朱子学を
「支配者が己に都合よく作った忠義」として、
さかしらの「からごころ」と批判する余り、
ただの主観的な悪口に
なってしまっているとのことです。

【本居宣長の日記】
<方広寺大仏のスケッチ>
本居宣長は医師になるための
京都遊学を終え、帰省する前に、
方広寺大仏を訪問しています。
「此仏のおほき(大き)なることは、
今さらいふもさらなれど、
いつ見奉りても、
めおとろく(目驚く)ばかり也」
と日記に書き記したそうです。
後に本居宣長は東大寺大仏も
訪問しましたが、
方広寺大仏に比べて
高さが小さく見えると
日記に記述しているとのことです。

<菅笠日記>
北畠神社の北畠氏館跡庭園を訪れています。
本居家の先祖が
北畠氏の家臣であったため、
先祖を偲ぶため訪問したと
「菅笠日記」に記されています。

<在京日記>
医師になるための
京都遊学の際の日記である「在京日記」や、
吉野や飛鳥を歴訪した際の日記である
前述の「菅笠日記」など、
本居宣長は膨大な量の日記を残しています。
それらについて、江戸時代の庶民の生活や
町の様子、催されていた行事など、
当時を伺い知ることのできる
歴史史料として史料価値が
高いとされています。
また京都の方広寺大仏(京の大仏)など
今日現存しない建造物についての言及や、
明和7年(1770年)7月28日夜に
日本各地で観測された
オーロラへの言及などもあり、
歴史学以外の他の分野からも
注目される記述があるとのことです。

【医師として】
家業を手伝うも、読書に熱中し
商売に適していないと、
母に相談して医業を学びました。
地元・松坂では医師として
40年以上にわたって活動しました。
初め加賀藩から
仕官の交渉があったとのことですが、
遠国であり、老身であるため、
仕官を好まず、「記伝」
の執筆中もあって断ったとのことです。
この噂を聞いた紀州藩
対抗的に招き、寛政4年(1792年)、
紀州藩に仕官し、
御針医格十人扶持となりました。

本居宣長は昼間は
医師としての仕事に専念し、
自身の研究や門人への教授は
主に夜に行ったそうです。
本居宣長は「済世録」』と呼ばれる
日誌を付けて、毎日の患者や
処方した薬の数、
薬礼の金額などを記しており、
当時の医師の経営の実態を
知ることが出来ます。
亡くなる10日前まで
患者の治療にあたったことが
記録されています。
内科全般を手がけていましたが、
小児科医としても
著名であったとのことです。
当時の医師は薬(家伝薬)の
調剤・販売を手掛けている例も
少なくなかったとのことですが、
本居宣長も小児用の薬製造を
手掛けて成功し、
家計の足しとしていました。
また、乳児の病気の原因は
母親にあるとして、
付き添いの母親を
必要以上に診察した
逸話があるとのことです。

しかしながら、
あくまでその意識は
「医師は、男子本懐の仕事ではない」
と子孫に残した言葉に表れているとのことです。




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上田秋成との論争】
日本書紀を「漢意のふみ」とし、
大陸の強い影響などを糾弾していました。
本居宣長は天明6年(1786年)から
翌年頃まで上田秋成と
二度にわたって論争しています。
その結果を、本居宣長は
「呵刈葭(かがいか、あしかりよし)」
前後編の著作で、上田秋成は
「安々言(やすみごと)」という形で
著しました。
前編「上田秋成論難同弁」は、
主として音便などの
言語上の問題についての論争であり、
後編「鉗狂人上田秋成評同弁」は
「日の神論争」ともいわれ
日本神話の解釈をめぐる
論争であるとのことです。

松坂城~蒲生氏郷が築城し、中でも壮大な石垣が実に見事な日本100名城及び国の史跡です。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

北畠氏館跡・美杉リゾート(三重県)~奈良旅⑮

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