朝廷

和気清麻呂~皇統の断絶の危機を救い、平安京建都事業や財政職務に尽力した人物。

和気清麻呂の像



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和気清麻呂

和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、
奈良時代末期から
平安時代初期にかけての貴族です。
磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。

【生誕】
天平5年(733年)

【死没】
延暦18年2月21日
(799年4月4日)

【改名】
小和気穢麻呂(処罰に伴う改名)

【別名】
濂麻呂

【神号】
護王大明神

【墓所】
護王神社

【官位】
従三位・民部卿、贈正一位

【主君】
称徳天皇⇒光仁天皇⇒桓武天皇

【氏族】
磐梨別氏(磐梨別公)⇒
藤野(輔治能)氏(藤野真人)⇒
和気氏(和気宿禰、和気朝臣)

【父】
磐梨別乎麻呂(または平麻呂)

【兄弟】
広虫、清麻呂

【妻】
和気嗣子

【子】
広世(長男)、真綱(五男)、
仲世(六男)、藤原葛野麻呂室、ほか

【生涯と経歴】
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。
天平宝字8年(764年)に発生した
藤原仲麻呂の乱では
孝謙上皇側に参加した模様で、
天平神護元年(765年)正月に
乱での功労により勲六等の叙勲を受け、
3月には藤野別真人から
吉備藤野和気真人に改姓しています。
右兵衛少尉を経て、
天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、
近衛将監に任ぜられるとともに
特別に封戸50戸を与えられたとのことです。




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神護景雲3年(769年)7月頃に
宇佐八幡宮の神官を兼ねていた
大宰府の主神(かんづかさ)・
中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、
称徳天皇が寵愛していた道鏡
皇位に就かせれば天下太平になる、
と奏上したのでした。
道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに
自信を持ち、
あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して
託宣させたともされており、
自らが皇位に就くことを望んだのでした。

称徳天皇は神託を確認するため
側近の尼僧で和気清麻呂の姉でもある
和気広虫(法均尼)を召そうとしましたが、
虚弱な法均では長旅は堪えられないため、
代わりに弟の和気清麻呂を召して
宇佐八幡宮へ赴き神託を
確認するように勅しました。
和気清麻呂は出発にあたって、
道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる、
或いは大臣に任官するとも、
もちかけられたということです。
一方で、道鏡の師である路豊永からは、
道鏡が皇位に就くようなことがあれば、
面目なくて臣下として
天皇に仕えることなど到底できない、
自分は殷の伯夷に倣って
身を隠そうと思う旨を伝えられたのでした。
和気清麻呂はこの言葉を当然と思い、
主君のために命令を果たす気持ちを
固めて宇佐八幡宮に参宮したとのことです。

宇佐八幡宮神託事件
和気清麻呂が宝物を奉り
宣命を読もうとした時、
神が禰宜の辛嶋勝与曽女
(からしまのすぐりよそめ)に託宣、
宣命を聞くことを拒みます。
和気清麻呂は不審を抱き、
改めて与曽女に宣命を聞くように願い出て、
与曽女が再び神に顕現を願うと、
身の丈3丈(約9m)の
満月のような形をした大神が出現したとのこと。
大神は再度宣命を聞くことを拒みますが、
和気清麻呂は与曽女とともに
宇佐八幡宮大宮司に復した
大神田麻呂による託宣、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。
無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」
を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告しました。
和気清麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、
和気清麻呂を因幡員外介に左遷しましたが、
さらに別部穢麻呂
(わけべ の きたなまろ)と
改名させて大隅国への流罪としたのでした。
道鏡は配流途中の
和気清麻呂を追って暗殺を試みましたが、
急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、
殺害実行の前に急に
勅使が派遣されて企みは失敗したと伝えられています。

和気清麻呂の像

【襲名な改名の意味】
現代の観点からは子供じみた
嫌がらせのようにも思える程の
醜名となった改名ですが、
名前には言霊が宿ると
考えられていたため、
当時は十分意味のある処罰でした。




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【道鏡の失脚と和気清麻呂の復帰】
神護景雲4年(770年)8月に
称徳天皇が崩御して
後ろ楯を無くした道鏡が失脚しました。
9月に和気清麻呂は大隅国から
呼び戻されて入京を許されます。
翌宝亀2年(771年)3月に
従五位下に復位し、
9月には播磨員外介に次いで
豊前守に任ぜられて官界に復帰しました。
また、和気清麻呂の祖先の墓が
郷里に営まれて大木が茂る林
となっていましたが、
和気清麻呂の配流中に
伐採されてしまっていました。

【美作備前両国の国造】
和気清麻呂が帰京して
この事情を上表したところ、
祖先4名と和気清麻呂を
美作備前両国の国造とする旨の
詔が出されました。
両国の国造として以下の事績があります。

【事績】
延暦7年(788年)、
備前国和気郡のうち
吉井川の西側の人民から、
この人民の居住地と
藤野郷にある同郡の役所の間に
大きな吉井川があるため、
雨で増水が発生するたびに
公務が果たせなくなるとの訴えがありました。
そこで和気清麻呂は
河の西側を磐梨郡として
独立させて新たな役所を設置すること、
水難を避けるとともに
人民の負担に不公平がないよう
和気郡藤野郷にある駅家を
川の西側に移転させることを言上し、
(のちの珂磨駅家か)
許されています。

延暦18年(800年)、
備前国にあった私墾田100町について、
和気清麻呂の遺志を継いで
子息の広世が賑給田として寄進しています。

【摂津大夫】
天応元年(781年)、
桓武天皇が即位すると、
一挙に四階昇進して
従四位下に叙せられました。
和気清麻呂は庶務に熟達して
過去事例に通暁していたことから、
桓武朝において実務官僚として
重用されて高官に昇進します。
延暦2年(783年)、
摂津大夫に任ぜられ、
延暦3年(784年)に
従四位上に昇叙されましたが、
摂津大夫として以下の事績があります。

【摂津大夫としての事績】
延暦4年(785年)、
神崎川と淀川を直結させる工事を行い、
大阪湾から長岡京方面への物流路を確保しました。

延暦7年(788年)、
大和川を大阪湾に直接流入させて
水害を防ぐことを目的に、
のべ23万人を動員して
上町台地の開削工事を行いましたが、
費用が嵩んで失敗しています。

【和気橋】
この事業は自然地形も
利用していましたが、
堀越神社前の谷町筋が
窪んでいるところと、
大阪市天王寺区の茶臼山にある
河底池はこの開削工事の名残りとされ、
「和気橋」という名の橋があります。
さらに東へ河堀稲生神社から
寺田町駅付近へ続いていたとのことです。

【民部卿】
和気清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、
民部大輔次いで民部卿を務め、
民部大輔・菅野真道とともに
民政の刷新を行うとともに、
「民部省例」20巻を編纂しました。

【中宮大夫】
延暦7年(788年)には
中宮大夫に任ぜられて
皇太夫人・高野新笠にも仕え、
その命令を受けて
新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し
「和氏譜」として撰上し、
桓武天皇に賞賛されています。




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【平安京への建都事業に尽力】
さらには、延暦3年(784年)の
遷都後10年経過しても
未だ完成を見なかった
長岡京に見切りを付けて、
山背国葛野郡宇太村を選んで
平安京への遷都を進言するとともに、
延暦12年(794年)には
造宮大夫に任ぜられ、
自身も建都事業に尽力しました。

【公卿の地位】
この間の延暦9年(790年)正四位下、
延暦15年(796年)には
従三位に叙せられ、
ついに公卿の地位に昇っています。

【薨去】
延暦18年(799年)2月21日薨去。
享年は67歳でした。
最終官位は
従三位行民部卿兼
造宮大夫美作備前国造。
即日正三位の位階を贈られました。

なお、薨去(こうきょ)とは
皇族・三位(さんみ)以上の人が
亡くなることです。

【後世】
江戸時代末の嘉永4年(1851年)3月15日に
孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて
神階正一位と
護王大明神の神号を贈りました。
明治7年(1874年)、
神護寺の境内にあった
和気清麻呂を祀った廟は
護王神社と改称され別格官幣社に列し、
明治19年(1886年)に
明治天皇の勅命により、
神護寺境内から
京都御所蛤御門前に遷座しました。
また、明治31年(1898年)3月18日には、
薨後1100年を記念して、
贈正三位から位階を進め、
贈正一位としました。

【和気神社】
また、出身地の岡山県和気町には、
和気氏一族の氏神である
和気神社があり、
和気清麻呂・和気広虫が祀られています。
ゆかりの寺として実成寺もあります。
配流先とされる
鹿児島県霧島市にも和気神社があります。

【戦前は勤皇の忠臣として】
和気清麻呂は楠木正成などとならぶ
勤皇の忠臣と見なされることもあり、
戦前には十円紙幣に肖像
(想像図、キヨソーネの描いた
木戸孝允の肖像画を修正したもの)が印刷されています。
日本銀行券の歴代の十円紙幣のうち、
兌換銀券の旧券と
戦後のA号券を除く
6券種に採用されています。
東京都千代田区大手町の大手濠緑地や、
岡山県和気町の和気神社境内など、
各地に銅像があります。

【戦前・戦中の教科書には必ず登場】
太平洋戦争の戦前及び
戦中の歴史の教科書に登場していました。
小学校の教科書から
登場していたとのことです。
奈良時代から戦前まで千年以上、
日本歴史上の最重要人物の一人として尊崇され、
特に戦前の歴史教科書では
「和気清麻呂、道鏡事件」 は
大きく取り上げられていたとのことです。

産経新聞は、
皇統の断絶という
日本最大の危機を救った人物と評しています。

【人物・人柄】
高直な人柄で、
一身の利益を顧みずに
忠節を尽くしました。

【姉・和気広虫】
早くから女官として宮廷に仕えていました。
光仁天皇がすべての近臣が何かにつけ
他人を非難したり褒めたりするなかで、
法均(和気広虫)だけは他のあやまちを
口にするのを聞いたことがないと
褒めたとのことです。

出家した後は身寄りをなくした
83人の子どもたちを引き取り、
自分の養子として育てたそうです。
日本初の孤児院だと云われています。

【姉と弟の仲】
姉の和気広虫と
弟の和気清麻呂とは仲が良く、
姉弟で家産を共有し、
当時の人々は孔懐の義
(姉弟の互いに思い合う気持ち)
を称讃したそうです。




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【伝説】
ある時和気清麻呂は
脚が不自由になって
起立できなくなってしまいましたが、
八幡神に拝礼しようとして
輿に乗って出発しました。
豊前国宇佐郡楉田村
(現在の大分県宇佐市和気近辺?)に至りますと、
300頭の野猪が現れて
道を挟んで列をなし10里ばかり
前駈して山中に走り去りました。
これを見て人々は
不思議なことだと思ったそうです。
神社に参拝すると和気清麻呂は
すぐに立って歩けるようになっていました。
宇佐八幡宮の神封から
綿8万余屯を与えるとの神託を受けて、
和気清麻呂は宮司以下豊前国中の
百姓にこれを分け与えました。
往路は輿に乗って出発しましたが、
帰路は馬を駆って帰還しました。
これを見て驚かない者は
いなかったとのことです。

この伝説の縁から、
護王神社・和気神社・御祖神社などでは
狛犬の代わりに「狛猪」が置かれています。

【和気清麻呂の銅像】
和気清麻呂の銅像は、
大手町一丁目4、大手濠緑地内にあります。
この像は、昭和15年、
紀元2600年記念事業として建立、
楠公銅像とともに
文武の二忠臣を象徴したものです。

和気清麻呂像 建立
 
地下鉄東西線竹橋駅のすぐ近くにあります。
高さは4m20cmあります。
和気清麻呂が宇佐神託を復奏するため
宮中に登る姿で、正々堂々たる気品に満ち、
数多い和気清麻呂の像の中で
最も有名であるとのことです。

【所在地】
〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目4
竹橋駅2番出口すぐ

江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

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